

相続開始から10年放置すると、どんなに高額な生前贈与でも「なかったこと」にされます。
「特別受益(とくべつじゅえき)」とは、複数いる相続人のうち、特定の一人だけが被相続人(亡くなった親など)から生前に受け取った特別な利益のことを指します。住宅購入資金の援助、事業の開業資金、高額な学費の負担などが代表的な例です。この特別受益がある場合、相続人間の公平を保つため、贈与分を一度相続財産に「持ち戻し」て、各自の相続分を計算し直します。
たとえば、兄弟3人(長男・次男・三男)の相続で、相続財産が6,000万円ある場合を考えてみましょう。被相続人の生前に、長男が住宅購入資金として1,000万円、次男が同じく2,000万円の生前贈与を受けていた場合、計算上の相続財産は「6,000万円+1,000万円+2,000万円=9,000万円」となります。この9,000万円を3等分すると1人あたり3,000万円。そこから各自の特別受益を差し引くと、長男は2,000万円、次男は1,000万円、三男は3,000万円というのが公平な配分となります。
ここで重要なのは、遺産分割(相続人同士の話し合い)において、特別受益の持ち戻しには原則として時効がないという点です(民法903条)。つまり、30年前や40年前に行われた生前贈与であっても、それが特別受益に該当し、贈与の事実を証明できれば、持ち戻し計算の対象になり得ます。これは「時効によって権利が消滅する仕組みがない」ということであり、贈与がいつ行われたかは問わないのが原則です。
こうした原則が設けられているのは、「特別受益の持ち戻し」はお金を返せという請求権(債権)ではなく、あくまで遺産の分け方を公平に調整するための計算ルールだからです。そのため、一般的な借金の時効(5年・10年)とは性格が異なります。
ところが2023年4月1日、民法の大幅改正が施行され、従来「時効なし」だった特別受益の主張に、実質的な10年の期間制限が加わりました。この改正の背景には、所有者不明の不動産問題への対処と、相続紛争の長期化による社会的損失の抑制があります。手続きが何十年も宙に浮いたまま放置されると、相続財産の不動産は誰も管理できず、売買や再開発の妨げになるなど、社会経済的な不利益が積み重なっていたのです。
参考リンク(民法改正の概要と遺産分割10年ルールの詳細)。
【民法改正】令和5年4月から「特別受益」「寄与分」の期限が10年に – 相続プラス
「特別受益に時効はない」というのが原則ですが、実は2つの例外パターンが存在します。これを混同すると、本来もらえるはずだった財産を丸ごと失いかねないため、特に注意が必要です。
パターン①:遺産分割協議における10年ルール(2023年4月施行)
2023年4月1日施行の改正民法(民法904条の3)により、相続開始から10年が経過すると、原則として家庭裁判所での調停・審判において特別受益を主張できなくなります。具体的には、裁判所は個別の事情(誰がいくら贈与を受けたか、誰が介護に貢献したかなど)を一切無視し、民法で定められた「法定相続分」に従って機械的に遺産を分割することになります。
「話し合いが長引いているけど、どうせ時間をかければ有利になる」という考えは危険です。10年の期限が来てしまったら、2,000万円の生前贈与を受けた兄弟を相手に「公平に分けてほしい」と訴えても、法的には聞き入れられなくなります。
| 状況 | 特別受益の主張可否 |
|------|-----------------|
| 相続開始から10年以内に遺産分割協議中 | ✅ 主張できる(時効なし) |
| 相続開始から10年以内に調停を申し立て済み | ✅ 主張できる(申立時点で保護) |
| 相続開始から10年を経過後に調停申立 | ❌ 原則主張できない |
ただし、相続人全員が合意している場合に限り、10年経過後も特別受益や寄与分を考慮した遺産分割を行うことは可能です。全員合意が得られないケースで、期限を過ぎてから裁判所に頼っても手遅れになります。
パターン②:遺留分侵害額請求における10年ルール(2019年7月施行)
もう一つの「10年ルール」は、遺留分(いりゅうぶん)に関するものです。遺留分とは、兄弟姉妹以外の法定相続人(配偶者・子・親など)に法律で保障された最低限の遺産取り分のことです。
2019年7月1日施行の改正民法では、遺留分を計算する際に考慮できる特別受益(生前贈与)を「相続開始前10年以内」に限定しました(民法1044条3項)。つまり、遺留分の侵害を争う場合、10年以上前の生前贈与は計算のテーブルに乗らないのです。
さらに遺留分侵害額請求権そのものにも別の時効があります。①侵害を「知った時から1年」で消滅、②相続開始から「10年」で消滅(こちらは知らなくても進行)という二重の時効が設定されています。
この2つのパターンはそれぞれ目的も仕組みも全く異なります。自分が直面しているのが「遺産分割の問題」なのか「遺留分の問題」なのかを最初に正確に見極めることが、権利を守るうえで最も重要な第一歩です。
特別受益の持ち戻しは、相続財産の取り分を大きく左右します。計算の仕組みを正確に理解しておくことで、交渉の場で数百万円単位の差が出ることもあります。
持ち戻し計算の基本式
まず、実際の相続財産に各相続人が受けた特別受益の合計を加えた「みなし相続財産」を計算します。次に、このみなし相続財産に法定相続分の割合を掛けて、各相続人の「一応の相続分」を算出します。最後に、特別受益者の場合は「一応の相続分」から特別受益の額を差し引くことで、実際に受け取れる「具体的相続分」が決まります。
たとえば、相続財産が3,000万円あり、子が3人(長男・次男・三男)の場合で、長男が生前に住宅購入資金として2,000万円の贈与を受けていたとします。
- みなし相続財産:3,000万円 + 2,000万円 = 5,000万円
- 各自の一応の相続分:5,000万円 × 1/3 ≈ 1,667万円
- 長男の具体的相続分:1,667万円 − 2,000万円 = マイナス333万円 → 0円
長男の具体的相続分がマイナスになっていますね。しかし、超過した特別受益を他の相続人に返還する義務はありません(民法903条2項)。これを「超過特別受益」と呼び、長男は相続財産からは何ももらえない代わりに、過去の贈与分を戻す必要もないということになります。
2019年改正:婚姻20年以上の夫婦への自宅贈与は「自動的に免除」
2019年7月1日施行の改正民法では、配偶者への特別な保護として「おしどり贈与」に関する重要な改正が行われました。婚姻期間が20年以上の夫婦間で居住用不動産またはその取得資金の贈与・遺贈があった場合、持ち戻し免除の意思表示があったものと「推定」されます(民法903条4項)。
改正前は、夫が妻に自宅(2,000万円相当)を贈与していても、その2,000万円は特別受益として持ち戻しの対象となり、妻が受け取れる現金相続分が大幅に減少するという問題がありました。改正後はこの2,000万円分を持ち戻さなくてよいため、妻が実際に手にできる現金が大きく増えます。
これは「知っているだけで家族の老後を守れる」制度です。ただし、この免除推定は遺留分の計算では適用されないため、他の相続人の遺留分を著しく侵害している場合には注意が必要です。
参考リンク(特別受益の計算方法と2019年改正の詳細)。
特別受益とは?時効・相続分の計算方法・持ち戻し免除規定について – 税理士法人チェスター
改正後のルールを「なんとなく知っている」状態では、実際の相続手続きで大きなミスを犯すリスクがあります。ここでは、実務上とくに多い失敗パターンを整理します。
落とし穴①:銀行の取引記録は10年で消える
特別受益を主張するには、贈与の事実を客観的な証拠で証明する必要があります。最も強力な証拠のひとつが、銀行の振込・入出金の履歴です。ところが、多くの金融機関では取引履歴の保存期間が約10年とされており、それを過ぎると公式な記録の取得が極めて困難になります。
つまり「特別受益の持ち戻しに時効はない」としても、証拠の入手可能期間には実質的な上限があります。30年前の生前贈与を主張しようとしても、当時の振込記録はほとんどの場合、銀行に残っていません。贈与契約書も残っていなければ、相手が「もらっていない」と否定した瞬間に主張は崩れます。証拠の散逸が起きる前に動くことが原則です。
落とし穴②:「合意できなくても時間をかければ有利」は幻想
家族間の遺産分割が長引くのはよくあることです。「関係をこじらせたくない」「もう少し様子を見よう」という気持ちはわかります。しかし相続開始から10年が経過し、その後に家庭裁判所へ調停を申し立てても、裁判所は特別受益を考慮してくれません。法定相続分で機械的に分割されるだけです。
大切なことが1つです。「相続開始から10年以内に調停を申立てる」という手続きさえ踏めば、その後の審理に時間がかかって10年を超えても特別受益の主張は守られます。申立そのものを期限内に行うことが最低条件です。
落とし穴③:経過措置の期限を見落とす
2023年3月以前に相続が開始していた場合、10年ルールに関して複雑な経過措置が設けられています。被相続人がいつ亡くなったかによって、期限の計算方法が変わります。
| 相続開始時期 | 期限の考え方 |
|------------|------------|
| 2023年4月以降に死亡 | 死亡日から10年 |
| 2013年4月より後、2023年3月以前に死亡 | 死亡日から10年が経過する日(2028年3月31日より後) |
| 2013年3月以前に死亡(10年経過が2028年3月31日以前) | 2028年3月31日が期限 |
特に注意が必要なのは、2013年(平成25年)3月以前に亡くなったケースです。このような「古い相続」の場合、経過措置により2028年3月31日が事実上の期限となります。「昔の相続だからもう関係ない」と放置している家庭が、実は2028年という実質的なデッドラインに迫られているケースは少なくありません。
参考リンク(10年ルールの経過措置と対策を詳しく解説)。
特別受益に時効はある?民法改正後の10年ルールを弁護士が解説 – 弁護士法人アクロピース
ここからは、他のサイトではあまり語られない独自の視点をお伝えします。「特別受益と時効の問題」は、単に法律の話ではなく、日頃からの「財務記録の管理」という金融リテラシーの問題でもあります。
生前贈与の記録を残すことが相続争いを防ぐ
金融に興味を持つ方なら、贈与税の非課税枠(年間110万円以下の暦年贈与)を使って資産を子供や孫に移す方法をご存知の方も多いでしょう。しかし、贈与税の申告をして節税するだけでは不十分です。贈与が「特別受益」として将来問題になった場合に備え、贈与契約書を毎回作成し、振込で送金する(現金手渡しを避ける)ことが極めて重要です。
贈与の記録が明確であれば、受け取った相続人が「もらっていない」と言い張ることも難しくなります。逆に、記録がなければ後の相続人が主張したくても証拠がなく、泣き寝入りするしかありません。記録を残す習慣は、贈与する側にとっても受け取る側にとっても、財産を守るうえで最良の保険です。
不動産の登記情報は有力な証拠になる
土地・建物の贈与があった場合、不動産の登記事項証明書を取得すれば、いつ誰から誰に所有権が移ったかを明確に確認できます。この登記情報は法務局で誰でも取得でき、現在は「登記情報提供サービス」を使えばオンラインで334円(変動あり)から確認できます。時効の問題を扱う場面でも、不動産登記は最も信頼性の高い証拠のひとつです。
複数の民法改正が「2層構造の10年ルール」を生んでいる
2019年と2023年の2回にわたる民法改正で、特別受益に関する「10年ルール」が事実上2種類存在することになりました。一方は「遺留分を計算する際の生前贈与の対象範囲を相続開始前10年に限定する」ルールであり(2019年〜)、もう一方は「遺産分割での特別受益の主張を相続開始後10年以内に制限する」ルールです(2023年〜)。
この2つは互いに独立したルールです。どちらの問題に直面しているかによって、戦略と対応期限が全く異なります。相続に詳しくない人がこの2つを混同して、誤った方向で動いてしまうケースも実際の相談現場では起きています。専門家(弁護士・司法書士)に状況を整理してもらう価値は十分あります。
✅ 特別受益を主張したいなら → 相続開始から10年以内に調停申立(2023年改正)
✅ 遺留分を回収したいなら → 侵害を知った日から1年以内に請求(2019年改正)
この使い分けだけ覚えておけばOKです。
早期に動くことが最大のリターンを生む
投資の世界では「時間の分散」と「早期参入」が長期的なリターンを左右します。相続手続きも同様で、「早めに証拠を集め、早めに専門家に相談し、必要なら早めに調停申立」をすることが、自分の正当な取り分を守るための最も確実な方法です。
特別受益の問題が発生しそうな場合、相続開始後できるだけ早い段階で、弁護士や司法書士に無料相談(多くの事務所で初回60分無料)を利用して状況を確認することをおすすめします。放置が最大のリスクです。
参考リンク(特別受益の主張と遺産分割協議の実務的な流れ)。
Q:毎年110万円の暦年贈与も特別受益になりますか?
「生計の資本」となるような高額の贈与が特別受益の対象です。少額の暦年贈与(年110万円以下)は、一般的な扶養義務の範囲として特別受益に該当しないとされるケースが多いですが、累積で何百万円にもなる場合は個別の判断が必要です。贈与の目的や金額・家庭の状況によって判断が変わる点は注意が必要です。
Q:住宅ローンの頭金の援助も特別受益ですか?
高額な住宅購入資金の援助は、典型的な特別受益のひとつです。500万円や1,000万円単位の頭金援助は「生計の資本としての贈与」にあたるとみなされる可能性が高く、家庭の状況によっては遺産分割の際に持ち戻しの対象になります。親からの援助を受けた場合は、贈与契約書を作成し、金額と日付を明確に残しておくことが大切です。
Q:生命保険の死亡保険金は特別受益になりませんか?
原則として、生命保険の死亡保険金は受取人の「固有財産」であるため、特別受益の対象外です。遺産分割の対象にも含まれません。ただし例外があります。財産のほとんどを生命保険に組み込み、特定の相続人だけを受取人に指定するなど、他の相続人との間で著しい不公平が生じる場合は、特別受益に準じる扱いがなされることがあります(最高裁平成16年10月29日決定)。生命保険を相続対策として活用する際は、この点を念頭に入れておきましょう。
Q:相続開始後10年を過ぎたら、もう何もできませんか?
家庭裁判所での特別受益の主張はできなくなりますが、相続人全員が合意すれば、特別受益を考慮した形で遺産分割協議をまとめることは可能です。法的な強制力はなくなるものの、話し合いによる解決の余地は残ります。また、遺留分侵害額請求は「侵害を知った日から1年」という別の時効が走っているため、遺留分の問題がある場合は別途速やかに対応が必要です。
Q:被相続人が遺言書に「この贈与は持ち戻しを免除する」と書けば絶対に免除されますか?
原則として、遺言書や贈与契約書に明記された持ち戻し免除の意思表示は有効です。しかし、その免除が遺留分を侵害している場合は、他の相続人から遺留分侵害額請求を受ける可能性があります。免除すれば何でも通るわけではありません。遺言書を作成する際は、遺留分との兼ね合いも必ず確認することが重要です。
参考リンク(特別受益の時効と10年ルールに関する大阪弁護士会の解説)。
特別受益の「時効」?(相続法の改正) – 大阪弁護士会 総合法律相談センター