

銀行口座の新規開設後すぐに大量の送金を繰り返すと、あなたの口座は翌日凍結される場合があります。
疑わしい取引の届出制度は、正式名称「犯罪による収益の移転防止に関する法律(犯収法)」第8条に定められた法律上の義務です。特定事業者が業務の遂行過程で「この取引は犯罪収益ではないか」「顧客がマネー・ローンダリング(マネロン)を行おうとしているのではないか」という疑いを抱いた場合に、速やかに所管行政庁へ届け出ることが義務付けられています。
制度の目的は、犯罪収益がテロ資金供与や特殊詐欺などに利用されることを防ぐことです。金融機関や不動産業者などを社会の「防衛ライン」として位置づけ、資金の流れを監視させる仕組みとなっています。
重要なのが「届出は刑事告発ではない」という点です。届け出た時点で顧客が逮捕されるわけではなく、警察庁の犯罪収益移転防止対策室(JAFIC)が情報を集約・分析し、捜査に資すると判断したものだけが捜査機関に提供される流れになっています。つまり、届出はあくまで「情報の報告」にとどまります。
届出先は業種によって異なり、銀行であれば金融庁、宅建業者であれば国土交通省というように、各業種の所管行政庁が窓口になっています。その後、所管行政庁から国家公安委員会・警察庁へ通知される仕組みです。届出の件数は増加の一途をたどっており、令和6年(2024年)の届出件数は80万件超・過去最多を記録しました。
以下に届出制度の流れをまとめます。
| ステップ | 内容 |
|---|---|
| ① 取引の発生 | 特定事業者が顧客と取引を行う |
| ② 疑義の発生 | 職員が取引の内容・顧客の属性から「疑わしい」と判断 |
| ③ 届出 | 所管行政庁へ届出書(別記様式)で報告 |
| ④ 集約・分析 | JAFICが情報を整理・分析 |
| ⑤ 捜査機関へ提供 | 捜査に有用と判断された情報が都道府県警察等に提供される |
参考:金融庁が公表する届出制度の全体像とガイドライン
疑わしい取引の届出制度|金融庁
金融庁は「疑わしい取引の参考事例(預金取扱い金融機関)」を公表しており、職員が判断する際の指針として広く活用されています。参考事例はあくまで「この可能性に注意を払うべき」という例示であり、事例に当てはまるすべての取引が届出の対象になるわけではありません。同時に、事例に当てはまらなくても、総合的に「疑わしい」と判断されれば届出対象になり得ます。これが原則です。
参考事例は大きく8つのカテゴリに分類されています。
第1:現金の使用形態に着目した事例
収入・資産に見合わない多額の現金入出金、短期間で繰り返す頻繁な現金取引などが挙げられます。特に「送金や自己宛小切手で対応するのが自然な状況なのに、あえて現金で行う」取引は注意を要します。また、多量の少額通貨(小銭の束など)で入金・両替を行う取引も対象です。
第2:真の口座保有者を隠匿している可能性に着目した事例
架空名義・借名口座の利用、事業実体がない法人による口座開設、複数口座の保有、頻繁な住所・氏名・メールアドレスの変更などが含まれます。非対面取引では、IPアドレスの不整合や同一端末からの複数口座へのログインなども疑わしい行動とされています。
第3:口座の利用形態に着目した事例
口座開設直後の多額・頻繁な入出金とその後の解約・休止、入金直後の多額送金、多数の第三者への頻繁な送金・受金などが代表的です。「テスト送金」と見られる少額送金の後に高額取引が連続するケースも、要注意取引として挙げられています。
第4〜7:債券売買・保護預り・外国取引・融資に関連する事例
大量の債券を持ち込み現金受け渡しを求める行動、資金洗浄対策に非協力的な国・地域への送金、延滞融資の突然の一括返済なども事例として挙がっています。
第8:その他の事例
「公務員や会社員が収入に見合わない高額取引を行う」ケースは特に具体的なものです。複数人で同時に来店し別々の担当窓口に現金取引を依頼するケースや、取引の秘密を不自然に強調する顧客、暴力団員や関係者との取引なども含まれています。
注目すべき点は、オンラインカジノ関連の取引が参考事例に明示されていることです。「オンラインカジノ関係者が顧客になりすましてアクセスしている疑い」「振込依頼人名に英数字が含まれる振込が多数あり、オンラインカジノ関連の収納・決済代行が疑われる取引」と、近年の新たな犯罪手口に対応した記述が加わっています。
参考:金融庁が公表する届出参考事例の詳細リスト
疑わしい取引の参考事例|金融庁
届出義務の対象は銀行だけではありません。犯収法第2条第2項が定める「特定事業者」は、預金取扱金融機関・保険会社・金融商品取引業者・暗号資産交換業者・宅地建物取引業者・ファイナンスリース業者・クレジットカード業者・貴金属等取引業者・郵便物受取・電話受付サービス業者など、幅広い業種に及びます。つまり業種ごとに参考事例が用意されている形です。
保険会社の場合
保険料を多額の現金で支払う顧客、短期間で加入した直後に解約する顧客(保険料の払い戻しを受けることを目的とした資金洗浄手口)、突然支払い方法を月払いから一時払いに変更する契約者などが参考事例として挙がっています。
保険を使ったマネロンの典型的な手口は「プレイスメント」と呼ばれ、犯罪収益を一時払い保険料として注入し、早期解約で払い戻された資金を「保険金」として出所を正当化するものです。
金融商品取引業者(証券会社)の場合
収入・資産に見合わない多額の現金による株式・投資信託の購入、売却代金の振込先として第三者名義口座を指定しようとする顧客、有価証券発行によって調達しようとする資金の使途と業務との関係が不自然な会社の有価証券発行などが含まれています。
宅地建物取引業者(不動産)の場合
不動産はマネロンの典型的な対象として国際的にも認識されており、特に「多額の現金による不動産購入」が参考事例の中核となっています。また、売買代金の出所や名義が不自然な取引、購入者の属性と購入物件の規模が大きくかけ離れている取引なども対象です。
暗号資産交換業者の場合
暗号資産はその匿名性・国境を越えた送金の容易さからマネロンへの悪用が世界的に問題視されています。日本の暗号資産交換業者にも犯収法上の届出義務が課されており、KYC(本人確認)が不十分な取引や多額の暗号資産の短期間での移転などが参考事例として示されています。
以下は業種別の届出義務のポイント比較です。
| 業種 | 主な参考事例の特徴 | 所管行政庁 |
|---|---|---|
| 銀行・信用金庫等 | 現金入出金、口座利用形態、外国送金 | 金融庁 |
| 保険会社 | 一時払・早期解約、高額保険料 | 金融庁 |
| 証券会社 | 現金による投資、第三者名義への送金 | 金融庁 |
| 暗号資産交換業者 | 匿名性の高い取引、多額の移転 | 金融庁 |
| 宅建業者 | 現金購入、不自然な売買条件 | 国土交通省 |
参考:警察庁JAFICによる業種別参考事例一覧
疑わしい取引の参考事例|JAFIC 警察庁
金融に関心を持つ人の多くは「届出は暴力団や詐欺師など明らかな犯罪者が対象だろう」と考えがちです。ところが実態は異なります。これは読者にとって非常に重要な点です。
参考事例の冒頭には「これらの事例に形式的に合致するものがすべて疑わしい取引に該当するものではない」と明記されています。つまり事例に一致しても必ずしも届出の対象ではありません。ところが逆もまた真で、「これに該当しない取引であっても、金融機関等が疑わしい取引に該当すると判断したものは届出の対象となる」と同時に記されています。
合理的な理由があれば問題ありません。しかし、その「合理的な理由」を金融機関が判断するとき、顧客の属性・職業・過去の取引履歴・取引時の態度・顧客が提供した説明の内容など、多様な要素が総合的に勘案されます。
たとえば、以下のような行動は「それ単体では問題ない」ように見えますが、組み合わさると届出の対象になる可能性があります。
- 口座を開設したばかりで、複数の知人から頻繁に振り込みを受ける
- 会社員なのに、月収を大きく超える金額を現金で入金する
- 海外送金を短期間に繰り返す
- 取引目的を聞かれると明確な説明ができない
「公務員や会社員がその収入に見合わない高額な取引を行う場合」は参考事例の第8に明記されています。これは、職業と取引規模のミスマッチが大きな判断要素になることを意味します。
また「届出を行わないように依頼、強要、買収等を図った顧客に係る取引」も参考事例に含まれています。「この件は届け出ないでほしい」と金融機関の職員に頼むこと自体が、逆に届出のトリガーになり得るということです。知っておくべき逆説です。
令和6年の届出件数は約85万件(警察庁年次報告書より)に達しています。これは年間で東京都の人口の約6〜7%に相当する件数の取引が届け出られている計算になります。マネロン対策の強化やAI技術を活用した金融機関のモニタリング精度の向上が、件数増加の主な要因です。
参考:令和6年犯罪収益移転防止に関する年次報告書(警察庁)
犯罪収益移転防止に関する年次報告書(令和6年)|警察庁
届出義務に関わるルールで、金融機関側・利用者側ともに見落としがちな規定が2つあります。
1.届出義務違反の罰則
特定事業者が疑わしい取引の届出義務を怠った場合の罰則は、2年以下の拘禁刑もしくは300万円以下の罰金(またはその両方)です。是正命令違反も同様の罰則になります。さらに法人の代表者や従業員が義務違反を犯した場合、行為者個人の罰則に加えて法人にも罰金が科される「両罰規定」が設けられています。この罰則は重いです。
加えて、所管行政庁による報告徴収・立入検査を拒否した場合も、1年以下の拘禁刑または300万円以下の罰金の対象です。金融機関がマネロン対策を組織的に軽視していると判断された場合、行政処分(業務停止命令など)に発展するリスクもあります。
2.tipping off(事前通知の禁止)
これは多くの人が知らないルールです。金融機関等は、疑わしい取引の届出を行った事実を顧客に知らせることを「法律で禁止されている」側面があります(FATF勧告においても「tipping off」禁止として国際基準に定められています)。
つまり、あなたの取引が「疑わしい」として届け出られても、銀行の窓口担当者はそれをあなたに教えることができません。顧客側からすると「自分の取引が届け出られたかどうか知る手段がない」状態になります。
ただし、守秘義務に係る事項については例外規定が存在します。公認会計士・税理士・行政書士等の士業については、依頼人との職業上の秘密に関わる部分を除いて届出義務が適用される、という形になっています。
この2点は、金融に携わるすべての人が把握しておくべき制度上の特性です。特に事業者として金融機関口座を利用している場合、「なぜ窓口で詳しく確認されたのか」「突然口座の利用が制限されたのはなぜか」という背景にこれらのルールが関係していることがあります。
参考:犯罪収益移転防止法違反と罰則の全体像
犯罪収益移転防止法違反で弁護士をお探しの方へ|アトム法律事務所