

ESGを無視した運用を続けると、あなたの年金資産が法的リスクにさらされます。
受託者責任(フィデューシャリー・デューティー)とは、他人の資産を預かって運用する者が、受益者の利益のために誠実かつ慎重に行動しなければならない義務のことです。英米法を起源とするこの概念は、日本では信託法上の「忠実義務」や「善管注意義務」と重なる形で機能しています。
金融の文脈でこの言葉が特に重要になるのは、年金基金や投資信託など、他者から資金を預かって運用する機関投資家の場面です。GPIFをはじめとする機関投資家は、加入者・受益者の将来の年金給付を守るという明確な目的のもとで資産を管理します。つまり、運用担当者が「自分の倫理観や好みで投資先を選ぶ」ことは、原則として許されません。これが原則です。
では、ESGはどこで登場するのでしょうか?ここが本記事の核心です。以前は「ESGなどの非財務情報を運用判断に入れることは、純粋な経済的リターンを追求する受託者責任に反する」という見方が一般的でした。ところが、近年の議論はその逆の方向へと大きく動いています。
受託者責任の中心的な2つの義務は以下のとおりです。
ESGリスクは、長期的に企業価値を毀損する重大な財務リスクになり得ます。たとえば、気候変動リスクを無視した投資ポートフォリオが将来的に大きく価値を失う可能性は、「注意義務を果たしていない」と評価される根拠になりえます。つまり、ESGを考慮しないことは、受託者としての注意義務違反になり得るということです。
参考:受託者責任の定義と機関投資家の義務について詳しく解説した企業年金連合会の公式解説
フィデューシャリー・デューティ(受託者責任) – 企業年金連合会
2015年、UNEP FI(国連環境計画・金融イニシアティブ)とPRI(責任投資原則)、UNGC(国連グローバル・コンパクト)が共同で発表した「21世紀の受託者責任(Fiduciary Duty in the 21st Century)」レポートは、世界の機関投資家に大きな衝撃を与えました。
そのレポートの結論はシンプルかつ明快です。「ESGを含む長期的な投資価値を牽引する要因を考慮しないことは、受託者責任違反になる」というものです。これは革命的な内容でした。
それ以前の議論は「ESG投資は受託者責任に反するか?」という問い立てでしたが、このレポートは問いそのものをひっくり返しました。「ESGを考慮しないこと自体が、むしろ責任違反になる」と宣言したのです。意外ですね。
このレポートが世界標準として広まった背景には、投資先企業のESGリスクが実際の財務パフォーマンスに影響を与える事例が積み重なってきたことがあります。たとえば、環境規制の強化による座礁資産リスク、ガバナンス不全による不正会計リスクなどは、すでに数多くの企業で顕在化しています。ESGは「道徳の話」ではなく、「リターンとリスクの話」になったのです。
日本版のロードマップも2017年4月に公表されており、日本市場においても同様の方向性が示されています。GPIFが2015年にPRIへ署名したことも、この流れを象徴する出来事でした。つまり、ESG考慮は義務という認識です。
| 時期 | 主な動き | 内容 |
|---|---|---|
| 2006年 | PRI(責任投資原則)策定 | 国連が機関投資家にESG考慮を要請。初回署名68機関・運用資産2兆ドル超 |
| 2015年 | 「21世紀の受託者責任」レポート公表 | UNEP FI・PRI・UNGCが「ESG考慮しないことは受託者責任違反」と結論 |
| 2015年 | GPIFがPRIに署名 | 運用資産約140兆円(当時)の世界最大の年金基金が責任投資に正式コミット |
| 2017年 | 日本版ロードマップ公表 | 「21世紀の受託者責任」日本版がリリース、国内制度整備の指針に |
| 2023年度末 | GPIF ESG指数連動運用 | 9つのESG指数に連動するパッシブ運用の資産額が約17.8兆円に到達 |
参考:UNEP FIが公表した「21世紀の受託者責任」日本語版レポート(受託者責任とESGの関係性の国際的位置づけを確認できます)
21世紀の受託者責任 日本版ロードマップ – UNEP FI(PDF)
受託者責任とESGの議論において、米国のERISA法(従業員退職所得保障法)をめぐる解釈の変遷は極めて参考になります。ERISAは米国の企業年金の運用を規定する連邦法で、受託者責任を忠実義務・注意義務・分散投資義務・文書遵守義務の4つで明確化しています。
2008年の解釈通達では、受託者がESGなど財務的リターン以外の要素を投資判断に入れることは「まれでなければならない」とされ、実質的にESG投資が抑制されていました。ところが、2015年のオバマ政権下での解釈通達改訂で流れが変わります。ESG要素は年金運用の経済価値に直接関連する可能性があり、それを考慮することは受託者責任上問題ないと明確化されたのです。これは使えそうです。
ただし注意が必要なのは、「許容される」と「義務化された」は別の話だということです。米国においては現在もなお、受益者の経済的利益を犠牲にしてESG的目的を追求することは明確に禁止されています。ESGが受託者責任と両立するのは、あくまでも「リスク調整後リターンの向上に資する」と判断できる場合に限られます。経済的リターンが原則です。
ハーバード大学のSitkoff教授とノースウェスタン大学のSchanzenbach教授の共同研究(2020年)では、ESG投資を「付随的利益(社会・環境への便益)目的」と「リスク・リターン改善目的」に分類し、前者のみを目的とするESG投資は受託者責任に反するという議論を展開しています。これは金融に関わる方が押さえておきたい重要な視点です。
日本において特に重要な示唆は、スチュワードシップ・コードとの関係です。2014年に制定された日本版スチュワードシップ・コードは機関投資家に対し、投資先企業との「建設的な対話(エンゲージメント)」を通じて企業価値を高めることを求めており、ESG要素の考慮はその中核にあります。企業年金においては、忠実義務・善管注意義務にもとづく受託者責任と、スチュワードシップ責任の両立が求められています。
参考:大和総研によるESG投資と受託者責任の米英比較分析(具体的な解釈通達の変遷がまとめられています)
日本における受託者責任とESG投資の最大の実践例は、世界最大の年金基金であるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)です。2024年度末時点の運用資産額は約249兆7,821億円と過去最大を更新しており、その規模はとてつもなく大きく、東京ドーム約500万個分の面積に相当する金額とも例えられます。
GPIFは2015年にPRIへ署名して以降、ESG投資を段階的に拡大してきました。2023年度末時点で9つのESG指数に連動するパッシブ運用の資産額は約17.8兆円に達しています。これは、単純計算で日本の国家予算の約1.5倍の規模です。これは大きいですね。
GPIFのスチュワードシップ活動で特に注目すべき点は、受託者責任の枠組みの中でESGを「リスク管理ツール」として位置づけていることです。具体的には次のような取り組みが行われています。
GPIFが受託者責任の観点でESGを正当化する論理は明快です。「現世代だけでなく次世代の被保険者にも必要な積立金を確保するためには、長期的な視点でのリスク管理が不可欠であり、ESGリスクを無視した運用は長期的なリターンを毀損する」という考え方に基づいています。長期視点が条件です。
個人投資家の立場から見ても、GPIFの動向は重要です。なぜなら、公的年金の運用方針は国内株式市場全体に影響を与えるため、ESG対応が遅れた企業は機関投資家からの資金流出リスクにさらされる可能性があるからです。ESG対応企業かどうかを確認するには、各社のサステナビリティレポートや、GPIFが採用するESG指数の構成銘柄を確認することが一つの方法です。
参考:GPIFのESG投資の取り組みを公式に確認できるページ(ESG指数の一覧や運用資産額を確認できます)
ESG投資 – 年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)
受託者責任とESGの議論は機関投資家の話として語られることが多いですが、実は個人投資家にとっても無視できない論点があります。それが「顧客本位の受託者責任」という視点です。
金融庁は2018年に「顧客本位の業務運営に関する原則」を策定しました。これは、金融機関が顧客である個人投資家に対して、フィデューシャリー・デューティーに準じる責務を持つことを示したものです。この原則の背景には、ESG関連投資商品が急増する中で、「見た目はESGだが実態はグリーンウォッシュ」という商品が個人投資家に販売されるリスクへの懸念がありました。厳しいところですね。
グリーンウォッシュとは、環境や社会への貢献を実態以上に誇張した金融商品や企業活動のことです。ESGブームに乗じて、実際にはESG基準を満たしていないファンドが「ESGファンド」として販売されているケースが世界的に問題となっています。EYの調査(2024年)によれば、グリーンウォッシュは5年前と比べて深刻化しているという機関投資家の認識が示されています。
個人投資家が受託者責任の観点からESGファンドを選ぶ際のポイントは、以下のとおりです。
個人投資家がESGファンドを選ぶ際にも、「顧客本位の受託者責任」の視点を持つことが大切です。自分が投資するファンドの運用会社が、本当に受益者である自分の利益のために行動しているかどうかを確認する習慣を持つことが、長期的な資産形成の土台になります。コスト確認が条件です。
金融庁が提供する「金融商品取引業者登録一覧」や、各投資信託の目論見書は、金融庁のウェブサイト(https://www.fsa.go.jp/)から無料で確認できます。ESGファンドを選ぶ際は、このような一次情報に直接あたることを強くおすすめします。
参考:ZUU onlineによるESG投資と受託者責任の3つの視点を整理した解説記事(機関投資家・個人投資家それぞれの視点から丁寧に分析されています)
ESG投資の受託者責任をめぐる3つの視点とは – ZUU online
受託者責任とESG投資の関係は、今まさに進化の途上にあります。日本の機関投資家が今後向き合わなければならない課題を整理すると、大きく3点に集約されます。
第一の課題は、ESG評価の標準化問題です。 現状、ESGの評価基準は評価機関ごとに大きく異なります。MSCI、Sustainalytics、S&Pグローバルなどの評価会社が存在しますが、同一企業に対するESGスコアが機関によって全く異なるケースが頻繁に指摘されています。受託者責任の観点から「どのESG基準を採用すべきか」は未解決の問題です。評価基準が条件です。
第二の課題は、ESG投資のパフォーマンス検証です。 受託者責任の核心は「受益者のリターンを最大化すること」です。ESG投資が長期的に市場平均リターンを上回るかどうかについては、現在も多くの研究が進行中であり、確定的な結論は出ていません。カリフォルニア州の公務員退職年金基金(カルパース)では2018年の理事選挙においてESG推進派が敗れ、運用パフォーマンス重視の姿勢が選ばれた事実もあります。パフォーマンスの検証が必須です。
第三の課題は、気候変動訴訟リスクの高まりです。 EYの機関投資家向け調査(2024年)によれば、気候変動対策を怠ったことを受託者責任違反として訴えられる事例が世界的に増加しています。日本でも将来的にこのような訴訟リスクが顕在化する可能性があり、機関投資家にとっては「ESGを考慮しないリスク」と「ESGを重視しすぎてリターンを犠牲にするリスク」の両面のバランスをとる難しい判断が求められます。
| 課題 | 現状 | リスク |
|---|---|---|
| ESG評価の標準化 | 評価機関によりスコアが大幅に乖離 | 「どのESGが正しいか」が不明確で受託者責任の遵守判断が困難 |
| ESGパフォーマンス検証 | 長期的な優位性に関する研究は継続中 | ESG重視が経済的リターンを毀損した場合、受託者責任違反に問われるリスク |
| 気候変動訴訟リスク | 欧米で受託者責任違反として訴訟増加 | ESG非考慮による損失が顕在化した場合、法的責任を問われる可能性 |
これらの課題は、受託者責任とESGの関係が単純な「どちらが正しい」という話ではなく、非常に複雑なバランス判断の問題であることを示しています。金融に関わる方にとっては、法的・財務的・倫理的な多面的視点を持ちながら、常に最新の議論をウォッチし続けることが求められる局面です。最新情報のフォローが原則です。
参考:金融庁のサステナブルファイナンス有識者会議議事録(日本における受託者責任とESGの最新の政策議論を確認できます)
サステナブルファイナンス有識者会議 議事録 – 金融庁