

対策が不十分な会社は、たった1人の顧客のクレームで企業名が全国に公表されるリスクがあります。
2025年6月4日、参議院本会議において「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等の一部を改正する法律(通称:カスハラ対策法)」が可決・成立しました。これは、カスタマーハラスメント(カスハラ)対策を事業主の雇用管理上の措置義務として明確に法制化した、日本初の国レベルの規定です。
背景には、深刻な数字があります。厚生労働省の「令和5年度(2023年度)職場のハラスメントに関する実態調査」によると、過去3年間に従業員からカスハラの相談があったと回答した企業の割合は27.9%に達し、前回(令和2年度)調査より8.4ポイント増加しています。パワハラ・セクハラ相談が横ばい傾向にある中、カスハラだけが増え続けているという現実がありました。
これまでカスハラの一部は刑法上の暴行罪・脅迫罪等で対処できましたが、「しつこい電話」「長時間の居座り」「感情的な暴言」など、刑罰法規に触れない程度の悪質なクレームには対抗手段がほとんどありませんでした。
つまり、法の空白地帯だったわけです。
今回の法改正はその空白を埋めるものです。事業主に「相談体制の整備」「方針の明確化・社内周知」「被害者へのケア」「再発防止措置」の4つを義務として課す内容になっています。
参考(厚生労働省 カスハラ対策法の解説ページ)。
令和7年労働施策総合推進法等の一部改正について(厚生労働省)
「改正法は公布日から1年6か月以内に施行」という規定のもと、施行日は2026年10月1日と正式に確定しています。公布日(2025年6月11日)から計算すると、施行まで約16か月というスケジュールです。
ここで重要なのが「いつから」の解釈です。施行日はあくまで法的義務の発生日であり、それまでに体制整備が完了していなければ義務違反となります。つまり、2026年10月1日が「始める日」ではなく「完了させる締め切り日」という認識が正しいです。
また、並行して注目すべき動きとして、東京都カスタマー・ハラスメント防止条例が2025年4月1日に施行済みであることも忘れてはなりません。東京都内の企業はすでに条例の適用下に入っており、全国法施行に先行した状況です。さらに北海道・群馬県でも同じ2025年4月1日に同種の条例が施行されています。
施行日が確定していることの意味は大きいです。「まだ先」という感覚で準備を後回しにすると、体制整備が間に合わない企業が続出します。義務化まで約8か月(2026年2月現在)しかない中、特に中小企業ではマニュアル作成・相談窓口設置・研修の実施という一連のプロセスに最低でも3〜6か月かかるとされています。
参考(施行日・改正内容の詳細)。
カスハラとは?法改正により義務化されるカスハラ対策の内容や対応の例(政府広報オンライン)
改正労働施策総合推進法では、カスハラを以下のように定義しています。
| 要件 | 内容 |
|---|---|
| ①行為者 | 顧客・取引先・施設利用者など事業に関係する者 |
| ②言動の性質 | 社会通念上許容される範囲を超えた言動 |
| ③結果 | 労働者の就業環境が害されること |
この3つをすべて満たして初めてカスハラに該当します。
3つ揃うことが条件です。
具体的な行為としては、大きく「要求の内容が不当」「手段・態様が不相当」の2軸で整理されます。厚生労働省の指針案には具体例として以下が挙げられています。
一方、カスハラに当たらない行為もあります。客観的にみて「社会通念上許容される範囲」で行われた正当なクレームや指摘は、カスハラに該当しません。正当なクレームは企業のサービス改善につながる貴重な情報です。
厚生労働省の2024年調査では、カスハラに発展した原因として「顧客対応・サービスの遅延(71.2%)」「対応者の説明不足(63.6%)」が上位に挙がっています。つまり対応する側のコミュニケーション不足がきっかけになるケースも多い、ということは覚えておく必要があります。
金融業界にとってカスハラ問題は特に深刻な状況です。帝国データバンクが2024年に実施した調査(約1万1000社対象)では、直近1年以内にカスハラを受けた企業の業種別割合で、金融は30.1%と全業種で2位(小売34.1%に次ぐ)という結果でした。
なぜ金融業でカスハラが多いのでしょうか? その背景には複数の構造的要因があります。まず、銀行・証券・保険といった金融機関では「お金」という個人にとって極めて重要な事柄を扱うため、顧客の感情的反応が激しくなりやすい土壌があります。次に、融資の断り・運用損失・保険の不払い判断など、顧客の期待に応えられない場面が必然的に発生します。
さらに、SP総研の2025年調査では、業種別で「11件以上」のカスハラ被害があった割合は金融業・保険業が22.6%と全業種2位という数字も明らかになっています。
特に気をつけたいのが、金融機関においては対策放棄のリスクが二重になっている点です。カスハラ対策を怠れば従業員の離職率上昇→人材不足→サービス品質の低下というサイクルに入り込むことになります。人材採用コストが年間100万円以上かかる現代では、従業員を守る仕組みは経営コスト削減にも直結します。
参考(帝国データバンク調査の詳細)。
カスタマーハラスメントに関する企業の意識調査(帝国データバンク)
改正法に基づく厚生労働省の指針案では、事業主が「措置を講じなければならない」項目として以下の4つが明示されています。
これらに加え、「相談者のプライバシー保護」と「相談したことを理由とした不利益取扱いの禁止」も併せて求められています。
相談した従業員を守ることが大前提です。
中小企業にとって特に負担が大きいのが②の相談体制の整備です。専任担当者を置く余裕がない場合、外部の社会保険労務士や弁護士事務所にアウトソースする方法が現実的です。「あかるい職場応援団」(厚生労働省ポータルサイト)では、無料で利用できるマニュアルひな型や研修動画が公開されており、コストを抑えながら体制を整える上で活用できます。
参考(指針案の内容・措置の詳細)。
2026年10月カスハラ対策が義務化!企業が講ずべき措置を解説(BUSINESS LAWYERS)
「罰則がないなら後回しでいい」と考えている経営者がいれば、その認識は危険です。
これが正確なことではありません。
確かに、カスハラ対策法には刑事罰(懲役・罰金)は設けられていません。しかし違反企業には段階的な行政措置が待っています。
| 段階 | 内容 |
|---|---|
| 第1段階 | 厚生労働大臣による報告の徴求(実態報告の要求) |
| 第2段階 | 助言・指導・勧告 |
| 第3段階 | 勧告に従わない場合→企業名の公表 |
企業名が公表された場合の影響は、金融機関においては特に甚大になります。顧客との信頼関係が業績の根幹にある金融業界では、企業名公表はSNS拡散→信用スコア下落→顧客離れ→株価影響という連鎖を起こす可能性があります。
また、同様の仕組みはすでにパワハラ防止法で実績があります。2020年施行のパワハラ防止法でも刑事罰はありませんでしたが、企業名公表というプレッシャーが企業の自発的対応を促した歴史があります。カスハラ対策法も同じ道筋をたどると考えるのが自然です。
直接罰金はない、が企業名公表のリスクは現実的です。金融機関は特に社会的信用を大切にする業種であるため、対策の先送りは経営判断のリスクそのものとなります。
現時点では「カスハラを規制する法律・条例」が複数並存しているため、整理しておくことが重要です。
| 比較項目 | 東京都カスハラ防止条例 | 改正労働施策総合推進法(国法) |
|---|---|---|
| 施行日 | 2025年4月1日(施行済み) | 2026年10月1日(確定) |
| 対象 | 都内事業者(一部都外に及ぶ場合も) | 全国すべての事業主(労働者1人以上) |
| 顧客への直接規制 | あり(顧客にもカスハラ禁止義務) | なし(顧客は努力義務のみ) |
| 事業主への義務 | 努力義務 | 措置義務(より強い) |
| 罰則 | なし(勧告・公表あり) | なし(指導・勧告・公表あり) |
重要な点が1つあります。東京都条例は「都内事業者」が対象ですが、都外の企業でも「都内で業務を行う場合」は適用対象になり得ます。コールセンターが都外にある場合でも、相手先の顧客が都内にいれば条例の及ぶ余地があるという解釈がされています。
「うちは地方だから東京都の条例は関係ない」は誤りである可能性があります。
なお、北海道・群馬県でも同年4月に条例が施行され、全国各自治体での制定が加速しています。金融機関が複数の都市で営業しているなら、各地の条例にも目を向ける必要があります。
義務化まで残り約8か月という状況で、何から手をつけるべきか迷っている担当者も多いはずです。
優先順位の高い順に整理します。
【STEP 1】カスハラ方針の文書化(今月中に着手)
「カスハラには毅然と対応し、従業員を守る」という会社の方針を一文でも文書化し、社内に周知することが最初のステップです。完璧なマニュアルを待つ必要はなく、まずトップダウンでの意思表明が先決です。
【STEP 2】相談窓口の設定と担当者の明確化(1か月以内)
既存の人事部門・総務部門を相談窓口として機能させることが現実的です。外部の弁護士・社労士と顧問契約を結ぶことも相談体制の一形態として認められています。
相談担当者が複数いることが条件です。
【STEP 3】現場対応マニュアルの整備(3か月以内)
業種・業態に合わせた対応フローを文書化します。厚生労働省が公開している「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」(無料)を雛型として活用し、自社の実態に合わせてカスタマイズするアプローチが効率的です。
【STEP 4】従業員研修の実施(施行前まで)
マニュアルを作るだけでは不十分です。従業員が実際の場面でどう動くかを体験させるロールプレイング型の研修が特に効果的とされています。外部研修サービス(オンラインで1万円程度から利用できるものもある)を活用すると、コストを抑えながら実践的な研修が可能です。
参考(無料マニュアルひな型・研修素材の入手先)。
あかるい職場応援団(厚生労働省 ハラスメント対策ポータルサイト)
金融業界では、国レベルの法義務化を待たずに先行して自主的なカスハラ対策に取り組んでいる機関が増えています。先行事例から学ぶことは、実務対応の質を上げる近道です。
みずほ信託銀行は自社サイトにカスハラへの方針を明記し、「悪質な行為については取引を制限する場合がある」という毅然とした姿勢を対外的に表明しています。これはカスハラ抑止効果があるだけでなく、従業員に対する「会社があなたを守る」というメッセージにもなります。
また全国銀行協会(全銀協)も独自の指針策定に動いており、「カスハラの判断基準が緩い金融機関に悪質顧客が集中する」という問題意識から、銀行界全体で一定の対応基準を設ける動きがあります。業界横断で足並みを揃えることで、個別機関がターゲットにされるリスクを分散させる狙いがあります。
名札のイニシャル化という対応も注目されています。従業員のフルネームを名札に記載することで、SNSで個人が特定されてカスハラの標的にされるケースが増えているため、銀行・証券窓口でも氏名表記をイニシャルや愛称に変更する動きが広がっています。これは法律で求められた措置ではありませんが、従業員のプライバシー保護という観点から実効性の高い対策です。
業界の先行事例は、自社マニュアル作成時のヒントになります。自社だけで考えようとせず、業界団体や他社の公開情報を積極的に活用しましょう。
多くの企業がカスハラ対策を考える際、「顧客=個人消費者」をイメージしがちです。
これは正確ではありません。
改正法の定義によれば、カスハラの行為者は「顧客、取引の相手方、施設の利用者その他の当該事業主の行う事業に関係を有する者」とされています。この「取引の相手方」には、法人の担当者(BtoBの取引先)も含まれます。
SP総研の2025年調査では、個人顧客からカスハラを受けたことがある割合が72.1%だったのに対し、法人顧客からもカスハラを受けたとの回答が51.3%と半数を超えています。企業間取引でもカスハラが横行している実態です。
金融機関の場合、法人営業担当者が取引先の担当者から無理な金利交渉を強要される、納期に関係なく大量の資料を深夜に要求されるといったケースも、改正法上のカスハラに該当し得ます。つまり、対策の対象を「個人窓口のお客様」だけに絞ると、法人営業部門で起きているカスハラが見えにくくなります。
これは独自視点の論点ですが、金融機関において特に重要な視点といえます。法人担当者も相談窓口の対象として明示することで、実態把握の精度が上がります。
経団連の2025年調査でも「BtoB型カスハラの事例や判断基準が必要」という声が上がっており、今後指針でより詳しく示される可能性があります。対策設計の段階から法人取引を含めた視野で整備することが重要です。
カスハラ対策を「法律対応」として捉えるだけでは十分ではありません。従業員のメンタルヘルスへの影響という視点が、実務上はむしろ中心的な課題になります。
厚生労働省の調査では、カスハラを受けた従業員の67.6%が「精神的な苦痛を感じた」と回答しています。精神的苦痛が長期化すると、うつ病・適応障害などのメンタルヘルス不調につながるリスクが高まります。一人の従業員がメンタル不調で休職・退職した場合、代替人員の確保コスト(採用・育成費)は平均100〜200万円ともいわれています。
対策に投資しないことのコストは大きいです。
特に金融機関の窓口担当者や電話オペレーターは、カスハラの最前線に立ちやすいポジションです。彼らが安心して働ける環境を整えることは、顧客サービス品質の維持にも直結します。カスハラを受けた直後の従業員を「一人にしない」という仕組み(複数対応・上司への即時報告ルール)が特に有効とされています。
会社が従業員を守る姿勢を示すことで、従業員の会社へのエンゲージメント(帰属意識)も向上します。採用難が続く金融業界において、「カスハラから守ってくれる会社」というブランドは、優秀な人材確保の競争優位になり得ます。
Q. 社員が1人しかいない個人事業主でも義務の対象になりますか?
改正法は「労働者が1人でもいれば事業主に該当する」とされています。パートタイムや契約社員も労働者に含まれるため、実質的にほぼすべての事業者が対象です。ただし、義務の内容は「必要な体制の整備」であり、小規模事業者に大企業と同レベルの体制を求めるものではありません。規模に応じた現実的な対策が認められています。
Q. 取引先の企業担当者が過剰要求をしてきた場合もカスハラになりますか?
はい、なります。改正法上のカスハラは「取引の相手方」を含むため、BtoB取引で発生した過度な要求も対象です。社内の相談窓口はBtoB場面のケースも受け付けられるよう周知することが必要です。
Q. マニュアルのひな型はどこで入手できますか?
厚生労働省が公開している「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」(無料)が汎用性の高いひな型として活用できます。また「あかるい職場応援団」ポータルでは業種別マニュアルや研修動画も公開されており、すべて無料で利用可能です。
Q. 義務化前に整備が完了しなかった場合、直ちにペナルティがありますか?
施行直後に即座に企業名が公表されるわけではありません。実際には「報告徴求→指導→勧告→公表」という段階を踏むため、施行後も是正の機会はあります。ただし、問題が発生した際に「対策なし」という状態が発覚すると行政対応が早まる可能性があり、特に金融機関は金融庁との関係もあるため、早期整備が賢明です。
参考(全銀協のカスハラ対応方針に関する資料)。
全国銀行協会 カスハラ対策に関する取組み資料(PDF)
十分な情報が集まりました。
記事を生成します。