
EMIR(欧州市場インフラ規則)は、2007年に始まった金融危機を受けて制定された店頭デリバティブに関するEUの包括的な規制フレームワークです。2012年7月に交付され、G20ピッツバーグ・サミットで提唱された「標準化された」店頭デリバティブ取引の清算集中義務を具体化したものです。
EMIRの主要な目的は以下の4つに集約されます。
この規制により、店頭デリバティブ市場の透明性向上とカウンターパーティ・リスクの減少を図ることが意図されています。特に金融システムの安定性確保の観点から、システミックリスクの軽減が重要な目標として設定されました。
EMIRの清算集中義務は、主に2つのカテゴリーの事業者に適用されます。
まず、Financial Counterparty(FC)には、銀行、証券会社、保険会社、ファンドなどが含まれます。これらの金融機関は、その性質上、店頭デリバティブ取引において重要な役割を担っているため、規制の主要な対象となっています。
次に、Non-Financial Counterparty(NFC)として、FC以外の事業者も対象となります。ただし、NFCについては、一定の取引規模に達した場合のみ清算集中義務が課せられる仕組みとなっています。
清算集中義務が発動する「清算集中閾値」は、店頭デリバティブ取引のクラスごとに設定されており、具体的な基準は以下のとおりです。
これらの閾値は、想定元本(グロス)の過去12ヶ月間の月末残高平均で算出され、いずれかのクラスで閾値を一つでも超えた場合、その事業者はEMIRの清算集中義務の対象となります。
注目すべき点として、想定元本の過去12ヶ月間の月末残高平均を計算していない場合は、無条件にEMIR清算集中義務の対象となる規定があります。これは、適切なリスク管理体制の構築を促す仕組みとして機能しています。
EMIRの特徴的な側面の一つが、その域外適用(extraterritorial application)の仕組みです。これにより、EU域外に設立された日本の金融機関であっても、一定の条件下でEMIRの清算集中義務の対象となる可能性があります。
域外適用が発動する「一定の場合」とは、日本のスワップハウスが「仮にEU域内で設置されていたとしたら、EMIR清算集中義務の対象となる場合」です。この判定基準は、規制の回避を防ぐとともに、EUの金融市場に影響を与える取引について適切な監督を確保することを目的としています。
具体的には、以下のような状況で域外適用が問題となります。
EMIRでは、規制の重複を避けるため、欧州委員会が第三国の法制がEMIRの規制と同等性を有するかどうかを評価する仕組みも設けられています。これにより、適切な代替的規制フレームワークが存在する場合は、重複適用を回避できる設計となっています。
しかし、実際の運用においては複雑な問題が生じることがあります。例えば、欧州銀行の東京支店が登録金融機関として金融商品取引業者等と円金利スワップ等を行う場合、日本の金融商品取引法上はJSCCでの清算集中義務を負いますが、一方でEMIRによって欧州域外に設立されたCCPであるJSCCへの清算集中が禁止されるという矛盾が生じる可能性があります。
EMIRの実装過程では、複数の実務的課題が浮上しており、これらの解決策を理解することは金融機関にとって重要です。
最も顕著な課題の一つが、異なる法域間での規制の整合性確保です。例えば、LCH等の海外清算機関が日本の金融商品取引法上の外国金融商品清算機関の免許を取得していない場合、LCH清算は金商法上の清算集中義務を満たすことができません。その結果、特定の取引を行うことが事実上不可能となるケースが発生しています。
清算参加者の区分も実務運用において重要な要素です。EMIR のテクニカル基準では、第三国CCPとしてESMAから認証を受けている清算機関の清算参加者は「Category 1」として取り扱われます。日本証券クリアリング機構(JSCC)は2015年4月27日付でESMAより第三国CCPとしての認証を受けており、Category 1への清算集中義務の適用は2016年6月21日から開始されました。
スワップハウス(一般的にNFCであり集団投資スキームにも該当しないもの)に対するEMIR清算集中義務の適用開始日は、対象クラスによって段階的に設定されています:
また、年金基金については特別な配慮がなされており、2021年6月18日までEMIR清算集中義務の適用が免除されていました。これは年金基金の特殊性とその重要な社会的役割を考慮した措置でした。
EMIR清算義務の導入は、単なる規制遵守の問題を超えて、金融機関のリスク管理手法に根本的な変革をもたらす可能性を秘めています。
中央清算機関(CCP)を通じた清算の義務化により、従来の相対取引におけるカウンターパーティ・リスクの構造が劇的に変化しました。CCPがすべての取引の中央的なカウンターパーティとなることで、個別の取引相手方の信用リスクに代わって、CCPの信用力とリスク管理能力が取引の安全性を左右する要因となります。
この変化は、金融機関のリスク管理部門に新たな課題を突きつけています。CCPの破綻処理メカニズムについて、EU では日本の金融商品取引法のような清算参加者に対する無限責任原則は規定されておらず、CCPの損失をどの程度清算参加者に割り当てるかは破綻処理当局の裁量に委ねられています。
さらに注目すべきは、CCPと破綻参加者の間の清算契約をすべて解消する「full tear-up」という劇的な措置が最後の手段として用意されていることです。これは未履行のブックを無くすことによりCCPの債務を削減し、その存続を図る有効な手段である一方、金融市場にとって不可欠な機能を損なうリスクも内包しています。
こうした複雑なリスク構造の変化により、金融機関は従来のリスク管理手法を根本から見直すことが求められています。特に、CCPの健全性モニタリング、清算基金への拠出管理、そして極端なストレスシナリオ下での事業継続性確保について、新たな専門知識とシステムの構築が不可欠となっています。
EMIR清算義務への対応は、単なるコンプライアンス事項ではなく、金融機関の競争力を左右する戦略的課題として位置づけられるべきでしょう。規制要求事項を満たすだけでなく、変化する市場構造を理解し、新たなリスク環境に適応した革新的なリスク管理手法を開発することが、今後の成功の鍵となります。
効果的なEMIR対応体制の構築には、法務、リスク管理、システム開発、営業部門などの緊密な連携が不可欠です。また、規制当局との継続的なコミュニケーションを通じて、解釈の明確化や実務的な課題の解決策を模索することも重要な要素となっています。