

ストレスチェックで「高ストレス」と出ても、実際に面接を受ける人はわずか5%以下です。
金融業界に関わる方なら、企業の「見えないリスク」を数字で評価することに慣れているはずです。ところが、職場のメンタルヘルスに関しては、そのリスクが長らく「見えにくいもの」として扱われてきました。しかしデータは明確に語っています。
厚生労働省の「労働安全衛生調査(令和4年)」によると、職業生活で強い不安・悩み・ストレスを感じている労働者の割合は82.2%にのぼります。これは10人の職場なら8人がストレスを抱えている計算で、東京ドームに例えるなら5万5,000人の観客のうち4万5,000人が何らかの心理的負荷を感じながら仕事をしているイメージです。
精神障害による労災の支給決定件数も急増しています。令和4年度は710件と過去最多を更新しており、平成14年度の108件と比べると約6.5倍にまで増えました。原因の内訳を見ると、1位は「パワーハラスメント(147件)」、3位には「仕事内容・仕事量の大きな変化(78件)」が入っています。仕事の量だけでなく、質や内容の変化もストレス要因になるという点は見落とされがちです。
さらに注目すべきデータがあります。傷病手当金を受け取っている疾病別の構成比において、「精神及び行動の障害」が占める割合が平成7年の時点では7.79%だったのに対し、令和4年度には35.82%に達しています。30年間で約4.6倍に膨れ上がった計算です。これはがんや循環器疾患を大きく上回る水準であり、企業にとってメンタルヘルス対策は今や健康管理の「本丸」に位置します。
メンタル不調による生産性損失は深刻です。横浜市立大学が2025年に発表した研究では、国内全体の損失額が年間7.6兆円に達すると試算されています。これは精神疾患の医療費の7倍以上にあたり、GDPの1.1%相当の経済的損失を毎年生んでいることになります。
厚生労働省「職場におけるメンタルヘルス対策の現状等(令和6年3月)」(精神障害の労災補償状況・傷病手当金データを含む公式資料)
厚生労働省は「労働者の心の健康の保持増進のための指針(メンタルヘルス指針)」の中で、職場のメンタルヘルス対策を4つのケアとして体系化しています。この4つのケアは縦割りではなく、互いに連携して機能することで効果を発揮します。
① セルフケアは、労働者自身がストレスに気づき、対処するための取り組みです。具体的にはストレスに関する正しい知識を習得すること、ストレスチェックなどを活用して自分の状態を客観的に把握すること、そして必要な場合に相談できる窓口を知っておくことが含まれます。金融業界では業績プレッシャーや顧客対応で知らず知らずのうちにストレスが蓄積しやすいため、セルフケアの習慣は特に重要です。
② ラインケアは、管理監督者(上司・マネージャー)が部下のメンタルヘルスを支援するケアです。「いつもと違う」部下の変化に気づくこと、声をかけ話を聴くこと、業務量や役割を適切に調整することが中心的な役割になります。厚生労働省の指針では、「ラインケアは早期発見・早期対応の要」と位置づけています。これが基本です。
③ 事業場内産業保健スタッフ等によるケアでは、産業医・保健師・人事労務担当者などの専門スタッフが、労働者・管理職の相談に対応し、ストレスチェックの実施・結果分析、職場復帰支援などを担います。特に従業員数50人以上の事業場では産業医の選任が義務付けられており、このスタッフが対策の司令塔になります。
④ 事業場外資源によるケアは、地域の精神科医療機関、EAP(従業員支援プログラム)、産業保健総合支援センターなど、社外の専門機関を活用するケアです。職場内では話しにくい悩みを抱えた社員が外部相談窓口を利用することで、問題の深刻化を防ぐ効果があります。これは使えそうです。
この4つが連携して動いている職場では、メンタルヘルス不調による休職・退職を早期に防ぐことができます。メンタルヘルス対策に取り組んでいる事業所の割合は令和6年時点で63.2%(従業員50人以上の事業所では94.3%)と報告されています。裏を返せば、全体の約4割の事業所はまだ本格的な対策に着手できていない状況です。
| ケアの種類 | 主な担い手 | 具体的な行動例 |
|---|---|---|
| ① セルフケア | 労働者本人 | ストレスチェック受検、相談窓口の把握 |
| ② ラインケア | 管理監督者 | 部下の変化に気づく、業務量の調整 |
| ③ 産業保健スタッフによるケア | 産業医・保健師・人事 | 相談対応、ストレスチェック分析、復職支援 |
| ④ 事業場外資源によるケア | 外部機関・EAP | 社外相談窓口の設置、医療機関との連携 |
厚生労働省「こころの耳」:メンタルヘルスの4つのケアについての公式解説ページ
ストレスチェック制度は2015年12月に始まり、従業員50人以上の事業場に実施が義務付けられてきました。ところが2025年5月、労働安全衛生法が改正され、50人未満の事業場にも義務が拡大されることが正式に決定しました。施行は公布後3年以内(最長で2028年5月まで)とされており、早ければ前倒しの可能性もあります。
これは中小企業や個人事業主を多数クライアントに持つ金融のプロフェッショナルにとっても、他人事ではない話です。取引先や融資先の中小企業がこの義務に対応できているかどうかが、将来的な企業評価に影響する可能性も出てきます。
ストレスチェック制度の流れを改めて確認すると、主に以下の4段階で構成されています。
ここで注目すべき数字があります。高ストレスと判定された労働者のうち、実際に医師の面接指導を受けた割合はわずか5%前後という調査データがあります。残り95%の高ストレス者は、面接を受けないまま業務を続けているわけです。厳しいところですね。
なぜ受けないのかという理由としては、「面接指導がどのように役立つか分からない(36%)」「必要性を感じない(29%)」「時間がない(20%)」が上位を占めています。仕組みはあっても、使われなければ意味がない。つまり、ストレスチェックの「実施」と「活用」は別物だということです。
厚生労働省は第14次労働災害防止計画(令和5〜9年度)の中で、2027年までにメンタルヘルス対策に取り組む事業場の割合を80%以上にする目標を掲げています。また、自分の仕事に関して強いストレスを感じている労働者の割合を50%未満にすることもアウトカム指標として設定されました。現状82.2%であることを考えると、かなり大きな目標です。
厚生労働省「ストレスチェック制度・メンタルヘルス対策」公式ページ(最新の義務化情報を確認できる)
メンタルヘルス対策を「福利厚生の一環」として軽く見ている経営者・管理職にとって、法的リスクの存在は見過ごせません。労働契約法第5条は、企業に「労働者の生命、身体等の安全を確保しつつ労働できるよう必要な配慮をする義務(安全配慮義務)」を課しています。これは結論として、「メンタルヘルス対策不備」も安全配慮義務違反になり得るということです。
実際の判例では、2000年に慢性的な長時間労働によって精神疾患を発症した社員の自殺について、会社との因果関係が認定され、1億6,800万円の損害賠償が請求された事案があります。その後も数千万円規模の賠償命令が出た判例は多数存在しており、中小企業であっても例外ではありません。
さらに直接的なコスト面も看過できません。内閣府の調査によると、年収約600万円の男性社員1人が6か月間休職した場合、周囲の社員の残業代増加なども含めると、企業が負担するコストは合計で422万円にのぼるとされています。これはちょうど新卒社員を1年間雇用するコストに匹敵する金額です。
一方、メンタルヘルス対策に積極的に取り組む企業には明確なリターンがあります。
金融業界では、ESG投資の観点からも従業員のメンタルヘルスへの対応が企業評価に組み込まれる動きが加速しています。三菱UFJ銀行や大和証券グループなど主要金融機関が健康経営を推進し、アブセンティーイズム(欠勤)とプレゼンティーイズム(不調出勤)の低減を経営指標として公表しているのも、こうした背景からです。メンタルヘルス対策は「コスト」ではなく「投資対効果のある経営判断」として捉えることが今の常識です。
職場の安全配慮義務とメンタルヘルスの重要性・違反事例と判例(具体的な判決金額を確認できる)
厚生労働省の指針では、職場のメンタルヘルス対策を「一次予防」「二次予防」「三次予防」の3段階に分類しています。金融業界のように業務量の変動が激しく、成果へのプレッシャーが大きい職場では、この3段階を意識した体制整備が求められます。
一次予防(発症前の予防) は、メンタルヘルス不調を未然に防ぐための取り組みです。具体的には、心の健康づくり計画の策定、社員教育・研修の実施、職場環境の改善、過重労働防止対策などが含まれます。ストレスチェックを活用した集団分析も一次予防の重要ツールです。特に部署単位でのストレス傾向を把握し、業務量や職場環境の改善につなげることで、個人の不調が起きる前に組織側から手を打つことができます。
二次予防(早期発見・早期対応) は、すでにメンタルヘルス不調の兆候が出ている段階での対応です。管理職が「いつもと違う」部下の変化に気づき、声をかけることが最初のステップになります。高ストレス者への産業医面接の促進、相談しやすい窓口の整備も重要です。二次予防が遅れると、不調が重症化し休職・退職につながります。早期発見が条件です。
三次予防(職場復帰支援) は、休職した社員が安全に職場に戻り、再発せず安定して働き続けるための支援です。厚生労働省は「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」の中で、以下の5ステップを提示しています。
このステップを踏まずに復職させた場合、再発リスクが高まり、最終的にはステップ1からやり直しになります。「復職できた=ゴール」ではなく、ステップ5のフォローアップこそが再発防止の核心です。
職場復帰支援の取り組み方が分からない企業向けに、独立行政法人「労働者健康安全機構」が運営する産業保健総合支援センターでは、産業保健の専門家への相談が無料で利用できます。47都道府県に設置されているため、まずここに問い合わせるのが最初の一歩として現実的です。
厚生労働省「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」(5ステップの詳細・様式ダウンロード可)
金融業界のプロが職場メンタルヘルスを語るとき、「休職者数」や「離職率」という指標ばかりが注目されがちです。しかしその裏側に潜むプレゼンティーイズム(不調出勤)の経済損失こそ、投資家目線・企業分析の視点では最も重大な指標といえます。
プレゼンティーイズムとは、出勤はしているが心身の不調によって本来のパフォーマンスが出せない状態を指します。厚生労働省が後援する研究では、うつ傾向によるプレゼンティーイズムの労働損失割合は1人あたり36.2%と試算されています。つまり、うつ傾向を抱えた社員は仕事にいながら実質3分の1以上の能力が失われているという意味です。
この見えないコストが積み重なると企業の生産性に深刻な影響を与えます。一般社員の52.6%が「勤務中に心身の不調でパフォーマンスが低下した経験がある」と回答しているというデータもあります。先ほどの年間7.6兆円という経済損失のうち、多くは欠勤ではなくこのプレゼンティーイズムが占めているとされています。意外ですね。
ESG投資が主流化した現在、機関投資家は「従業員の健康管理体制」を非財務指標として企業評価に組み込んでいます。経済産業省の「健康経営優良法人認定制度」に認定された企業は、採用市場での競争力だけでなく、株式市場においても健康経営非認定企業との間に中長期的なパフォーマンス差が生まれているというデータも出てきています。
健康経営銘柄や優良法人の認定取得を目指す場合、メンタルヘルス対策の実施状況(ストレスチェック実施率・集団分析活用の有無・相談体制の整備)は評価項目として必ず含まれます。金融機関が融資先や投資先の企業を評価する際にも、こうした非財務情報をどう定量化するかが今後ますます問われる時代になっています。
具体的に自社・顧客企業のプレゼンティーイズムを把握したい場合は、ストレスチェックツールの中にWFun(Work Functioning Impairment Scale)などのプレゼンティーイズム測定尺度を組み込む方法があります。これにより、部署ごとの不調出勤の実態を数値化し、投資対効果を踏まえた対策の優先順位付けが可能になります。メンタルヘルス対策を「感情論」から「データ経営」に変えることが、今の時代に求められるアプローチです。
横浜市立大学「メンタル不調の影響、年間7.6兆円の生産性損失」研究発表(2025年・プレゼンティーイズムの経済損失を定量化した最新研究)