

人権デューデリジェンスに取り組んでいない日本企業は、EU取引先から一方的に取引を打ち切られ、年間売上の16%以上を失うリスクがあります。
「人権デューデリジェンス(Human Rights Due Diligence)」は、英語で「due=当然の」「diligence=不断の努力」を意味する言葉を組み合わせたものです。つまり「人権に関して企業が当然果たすべき継続的な取り組み」という意味になります。
具体的には、企業が自社・グループ会社・サプライヤーを含む事業全体において、強制労働・児童労働・差別・ハラスメントなどの人権侵害リスクを洗い出し、予防・是正・情報開示するまでの一連のプロセスを指します。単発の調査ではなく、継続的に回し続ける「仕組み」である点が重要です。
よく誤解されるのは「人権問題はNGOや社会活動家が扱うテーマ」という認識です。しかし現代では、人権DDは明確に企業の経営リスク管理の問題として位置づけられています。投資家・金融機関・取引先から「人権への対応状況」を問われる場面が急増しており、ESG評価や融資審査にも直結するようになっています。
つまり人権DDとは、企業の「倫理的なきれいごと」ではなく、事業の継続と企業価値に関わる経営判断の核心です。
参考(経済産業省・責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン)。
経済産業省|責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン(PDF)
人権DDの出発点は、2011年に国連人権理事会で全会一致で採択された「ビジネスと人権に関する指導原則(UNGPs)」です。この指導原則は、従来「国家の義務」とされてきた人権保護に対して、初めて「企業の責任」を明示した画期的な文書です。
UNGPsは3つの柱で構成されています。①「人権を保護する国家の義務」、②「人権を尊重する企業の責任」、③「救済へのアクセス」です。この中の②が、まさに企業に人権DDの実施を求める根拠となっています。
指導原則が採択されて以降、欧米を中心に法制化の波が急速に広がりました。英国では2015年に「現代奴隷法」が施行され、年間売上3,600万ポンド(約70億円)以上の企業に対してサプライチェーン上の強制労働・人身取引リスクを毎年開示することを義務付けています。フランスでは2017年に「企業注意義務法(デュー・ヴィジランス法)」が制定され、大企業に人権・環境DDの実施と公開を義務付けました。
日本では、2022年に経済産業省が「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を策定しました。現時点では法的拘束力のない任意の指針ですが、グローバルサプライチェーンに組み込まれている日本企業にとって、事実上の「対応必須事項」になっています。
外務省|ビジネスと人権に関する指導原則(UNGP)小冊子(PDF)
人権DDの範囲は「自社内の問題」だけにとどまりません。
これが最も重要な理解ポイントです。
UNGPsや各国の法規制が対象とするのは、自社・グループ会社・直接の取引先(一次サプライヤー)にとどまらず、二次・三次のサプライヤー、さらには委託先・下請け先・原材料調達先まで含む「バリューチェーン全体」です。
EcoVadisのデータによると、強制労働の約78%は企業が把握しきれていない二次・三次サプライヤーで発生しています。つまり、一次サプライヤーだけ管理していても、深いところでのリスクは見えないということです。
実務的には、まず一次サプライヤーへのアンケート調査・現地訪問・第三者監査などで実態を把握し、その情報を起点として二次以降への働きかけを進めるアプローチが一般的です。サプライヤーの数が多い大企業では、デジタルツールを活用したサプライチェーンの可視化が不可欠になっています。
「うちはBtoB専門だから消費者の目線は関係ない」と考えるのは危険です。取引先の大企業がEUの法規制に対応するために、サプライヤーである中堅・中小企業にも人権DDへの対応を求めてくる構造が、すでに現実のものとなっています。
人権DDは大きく4つのステップで構成されます。単発の調査ではなく、これをサイクルとして回し続けることが求められます。
① 人権リスクの特定・評価
自社およびバリューチェーン上に潜む人権リスクを洗い出します。どの拠点・どの工程・どのサプライヤーにリスクが高いかを評価し、優先度をつけます。リスクの「重大性(深刻さ)」と「発生可能性」の2軸で評価するのが標準的な手法です。
② 負の影響の防止・軽減
特定されたリスクに対して、予防策・是正策を実行します。サプライヤーへの行動規範の導入要請や、現地従業員への研修実施、問題が発覚した場合の改善要請などが具体的な対応として挙げられます。
③ モニタリングの実施
対応の実効性を定期的に確認します。KPIを設定し、外部監査や現地ヒアリングなどを通じて取り組みが形骸化していないかを点検します。
継続的改善が求められます。
④ 外部への情報開示
取り組み状況と結果を、CSRレポート・統合報告書・ウェブサイトなどで開示します。投資家・NGO・消費者などのステークホルダーへの透明な情報提供が信頼確保につながります。
この4つのサイクルは一方通行ではなく、④の情報開示を通じてステークホルダーから受けたフィードバックを①の次回評価に反映させる構造になっています。
継続性が原則です。
オウルズコンサルティング|人権DDとは|基本的なプロセスとポイント(詳細解説)
人権DDが対象とするリスクは、明確な法律違反だけではありません。「社会的に問題視される負の影響全般」が対象となります。
主要な人権リスクは以下の通りです。
| リスク分類 | 具体的な内容 |
|---|---|
| 強制労働・児童労働 | 賃金未払い・過重労働・未成年者の不当就労。途上国の調達先で特に頻発 |
| 差別・ハラスメント | 性別・国籍・宗教・障がいなどに基づく不当な扱いや精神的・身体的嫌がらせ |
| 安全でない労働環境 | 安全対策が不十分な現場・健康被害が発生しうる作業条件 |
| 土地収奪・先住民権利侵害 | 大型開発・資源採掘に伴う強制移住や伝統的土地利用権の無視 |
| プライバシー・個人情報侵害 | 過剰監視・データの不適切な収集・利用による人権への影響 |
特に金融業界に関係するのが「プライバシーと個人情報侵害」のリスクです。FinTechや決済サービスにおけるデータ管理の問題は、今後さらに注目度が上がる分野です。
また「差別的な融資慣行」も人権リスクに含まれます。特定の属性(民族・国籍・性別など)を理由に融資を拒否したり、不当に不利な条件を課すことは、金融機関の人権リスクとして国際的に問題視されています。こうした認識は、金融に関わるすべての人が持っておくべきです。
現在最も注目すべき国際規制が、EUで2024年7月に発効した「企業持続可能性デューデリジェンス指令(CSDDD:Corporate Sustainability Due Diligence Directive)」です。
CSDDDは、EU域内外を問わず一定規模以上の企業に対して、人権・環境のデューデリジェンス実施と情報開示を義務付けるものです。2027年7月から段階的な適用が開始され、最終的には全世界売上高4億5,000万ユーロ(約720億円)以上・従業員1,000人超の企業が対象となります。
重要なのは「EU域外の日本企業も対象になる」という点です。EU市場で事業を行う日本企業や、EU企業のサプライヤーとなっている日系メーカー・商社は、実質的に遵守が求められます。違反した場合は全世界売上高の5%以上を上限とする制裁金が科される予定(各国内法に委ねられる部分もあり)です。東京ドーム数十個分の広さに例えると、年商1,000億円の企業なら最大50億円超の罰金リスクになります。
さらに見落とせないのが「取引停止リスク」です。法務省の資料でも「人権に関する取組が不十分である場合、取引の停止や不買運動による売上の低下、株価の下落、罰金の発生等、重大な損失をもたらす」と明記されています。EU企業が自社のCSDDD遵守のために、サプライヤーにも人権DD対応を求めてくる構造は、すでに現実のビジネス慣行になりつつあります。
JETRO|EUで人権デューディリジェンス義務化(1)日本企業の対応は?
金融に関心のある方にとって特に重要なのが、人権DDとESG投資・融資審査の関係性です。
世界のESG投資残高は2020年末時点で約3,883兆円に達しており、日本国内でも約316兆円規模まで成長しています(2018年比+32%)。ESG投資では、環境(E)・社会(S)・ガバナンス(G)の観点で企業を評価しますが、人権DDへの取り組みはこの「S(社会)」評価の中核に位置づけられています。
三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)は2024年度のサステナビリティレポートで、「機関投資家として投資先企業の人権デューデリジェンスを実施し、対話や議決権行使に活用している」と明記しています。MUFGも「ファイナンス検討時に人権DDを実施し、禁止事業への該当有無を確認の上、与信判断を実施している」と公表しています。
つまり投資家・金融機関側でも人権リスクをスクリーニングする動きが確実に進んでいます。投資先・融資先として選ばれるためには、人権方針の策定と開示が事実上の条件になりつつあります。
逆に言えば、人権DDへの取り組みは「評価を上げるための加点要素」から、「なければ減点・除外される要件」へと変化しつつある段階です。これはESG評価全体に言えることですが、人権分野は特に規制の整備が急速で、この流れは後退しにくいとされています。
三菱UFJ信託銀行|人権とサステナブル投資(投資家向け解説資料)
「人権問題が発覚しても、一時的に炎上するだけで回復できる」という認識は危険です。数字で見ると、そのインパクトの大きさが明確になります。
ある米国系アパレル企業では、1997年に委託先工場での児童労働が発覚して不買運動が広がった結果、1998年〜2002年の5年間で失った売上高が約1兆4,417億円(連結売上高の約26%相当)に上ったと試算されています。はがき1枚分の小さな出来事が、東京ドーム約1.4万個分の損失をもたらしたと言い換えることもできます。
日系自動車企業のインド工場では、2012年に差別的発言をきっかけとした労使紛争で1ヵ月以上の工場停止が発生し、インド子会社が失った売上高は約1,330億円(同年インド子会社売上高の約16%相当)と試算されています。
これらは直接の売上損失だけの話です。ブランド毀損・株価下落・ESG評価の低下・融資条件の悪化といった間接的な損失を加えると、実際の影響ははるかに大きくなります。
人権リスクは財務リスクそのものです。金融や投資に関わる人がこの認識を持つことは、非常に重要な視点です。
オウルズコンサルティング|人権を軽んじる企業には1,000億円以上失うリスクあり(数字で見るビジネスインパクト)
人権DDのプロセスで見落とされがちな要素が「グリーバンスメカニズム(苦情処理メカニズム)」です。
これは必須です。
グリーバンスメカニズムとは、企業活動によって人権侵害を受けた個人・地域が苦情を申し立て、是正を求めることができる仕組みのことです。2011年のUNGPs採択以来、人権DDと並んで企業が整備すべき重要な制度として位置づけられています。
内部通報制度との違いは「対象が従業員だけでない」点です。グリーバンスメカニズムはサプライチェーン上の労働者・地域住民・NGOなど、企業と取引関係や利害関係を持つすべてのステークホルダーが利用できる必要があります。
UNGPsが示すグリーバンスメカニズムの要件は、①正当性がある、②アクセスしやすい、③プロセスが予測可能である、④公平である、⑤透明性がある、⑥権利に適合している、⑦継続的に学習できる、⑧対話に基づく、の8つです。これらを満たす仕組みの構築が、企業の人権尊重責任を果たす証明になります。
金融機関においても、顧客・取引先・地域社会からの苦情に対応するグリーバンスメカニズムの整備が、ESG評価・格付けに反映される事例が増えています。
人権DDは「大企業だけの話」と思われがちですが、中堅・中小企業も取引先から求められる場面が急増しています。まず大企業の実例を見ることで、具体的な取り組みのイメージをつかみましょう。
味の素株式会社は2014年に人権方針を策定し、2018年には包括的な人権グループポリシーを公表しました。2019年から全従業員向けの人権Eラーニングを展開しており、学習機会の整備という観点でも先進的な取り組みを行っています。
ANAホールディングス株式会社は、英国現代奴隷法への対応と東京オリンピックのオフィシャルパートナー就任を契機に人権DDを本格化しました。外部専門家を加えたグループ全体のリスク評価と人身取引防止への取り組み開示が特徴です。
花王株式会社は、NPOプラットフォームを活用したサプライヤーへのリスク評価を実施しており、パーム油サプライチェーンの透明性確保という難易度の高い課題にも取り組んでいます。サプライチェーンを遡って評価する姿勢は参考になります。
これらの事例から見えるのは、「一度やれば完了」ではなく「継続的に更新していく姿勢」が共通しているという点です。また、経営トップの関与と、全社横断的な推進体制が不可欠という点も共通しています。
ここからは、まだ一般的にはあまり知られていない視点を紹介します。
現在、ESG評価機関(MSCI・Sustainalytics・EcoVadisなど)は人権リスクに特化したスコアリングを強化しており、機関投資家が投資先を選定する際の重要指標として「人権スコア」を使う動きが拡大しています。これはいわゆる「ネガティブスクリーニング(人権リスクの高い企業を投資対象から除外する手法)」として機能しています。
日本の年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は、ESGインデックスを採用した運用を行っており、そのインデックス選定基準の中に人権・労働慣行への対応状況が含まれています。GPIFの運用資産は200兆円規模であり、日本の株式市場における最大の機関投資家です。この巨大資金が人権スコアを参照する構造は、上場企業の株価にも間接的な影響を与えます。
さらに見逃せないのが、銀行の融資審査への影響です。みずほ銀行は「人権尊重への取組(投融資における人権デューデリジェンス)」を公表しており、投融資判断に際して人権リスクを評価する体制を明示しています。MUFGも同様に「禁止事業への該当確認」として人権DDを与信プロセスに組み込んでいます。
つまり、人権DDへの対応が不十分な企業は、株式市場から資金を集めにくくなるだけでなく、銀行からの融資にも影響が出る時代が現実に始まっています。金融の仕組みを理解している人ほど、この変化の重大さを正確に認識できるはずです。
GPIF|ESG活動報告(ESGインデックス・スクリーニングの詳細)
人権DDへの対応が後手に回った場合、企業が直面するリスクは大きく3つに整理できます。
1つ目は「取引機会の喪失」です。EUのCSDDD対応を進めるグローバル企業が、サプライヤー選定基準に人権DD対応状況を加えることで、未対応の企業との取引を打ち切るケースが現実に起きています。日本貿易振興機構(JETRO)が在欧州日系企業にヒアリングした結果でも、「デューデリジェンスの要求が取引先から急増している」という声が多く出ています。
2つ目は「投資・融資機会の喪失」です。ESG評価が低い企業はインデックスから除外され、機関投資家の投資対象から外れるリスクがあります。上場企業にとっては株価への直接的な影響、非上場企業にとっては銀行融資の条件悪化につながります。
3つ目は「ブランド・レピュテーションの毀損」です。人権侵害に関するニュースはSNSで瞬時に拡散し、サプライチェーン上での問題であっても「発注した側の責任」として報道されるケースが増えています。不買運動が5年以上続き、連結売上の26%を失った前述の事例はその典型です。
これら3つのリスクはいずれも「お金に直結する損失」です。人権DDを倫理的な問題として捉えるのではなく、財務的なリスク管理として位置づけることが、現代の投資・ビジネス判断に求められています。
「人権DDを始めなければ」と思っても、何から着手すべきか迷う人は多いです。
実務的な最初のステップを整理します。
ステップ①:人権方針の策定と公表
まず「自社は人権をどう位置づけているか」を文書化した「人権方針」を策定します。これはUNGPsが第一に求めるプロセスであり、外部への意思表明でもあります。方針はウェブサイトや年次報告書で公開することが求められます。経済産業省のガイドラインには方針策定の参考例も示されており、初めての企業はまずここを確認するのが効率的です。
参考(経済産業省ガイドライン概要パンフレット)。
経済産業省|責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン(概要パンフレット)
ステップ②:人権リスクアセスメントの実施
自社・グループ・主要サプライヤーの人権リスクを洗い出します。リスクの「重大性」と「発生可能性」で優先度を付け、対応順を決めます。EcoVadisやサステナビリティ管理クラウドなどのデジタルツールを活用することで、サプライヤーへのアンケートや評価を効率化できます。
ステップ③:継続的な開示とステークホルダー対話
取り組み状況を定期的に開示し、投資家・取引先・NGOとの対話の機会を持ちます。情報開示は「完璧な状態になってから」ではなく、「進行中の取り組みを誠実に報告する」姿勢が重要です。
透明性そのものが信頼を生みます。
最初から完璧な体制を整えようとする必要はありません。「まず人権方針を策定し、公開する」という一歩が重要です。