

健康に気を使っている人ほど、保険料を2倍多く払っている可能性があります。
「逆選択(Adverse Selection)」という言葉を初めて聞いた方でも、その仕組みを理解すると、保険料の価格設定や制度設計の背景が一気に見えてきます。
逆選択とは、取引の当事者間に情報の格差(情報の非対称性)が存在するとき、高リスクな側だけが取引に参加し、市場全体が歪んでいく現象のことを指します。保険の世界では特に顕著に現れます。
具体的に考えてみましょう。医療保険を例に挙げると、保険会社はすべての加入希望者の健康状態を完全には把握できません。一方、加入を希望している人(契約者)は、自分の健康状態を当然知っています。持病があったり、過去に大きな病気をした経験がある人は「自分は病気になりやすい」と知っているからこそ、保険に入りたいと強く思います。
逆に、毎日運動をして健診の数値も問題なく、自分が入院するイメージが湧かない健康な人は「保険料が高い割に使わないかも」と感じ、加入を見送ることがあります。
結果、保険の加入者は「リスクの高い人」ばかりになっていきます。これが逆選択です。
| 立場 | 持っている情報 | 行動 |
|---|---|---|
| 保険会社 | 加入者の健康状態を十分に把握できない | 平均リスクで保険料を設定する |
| 健康な人 | 自分のリスクが低いことを知っている | 割高に感じて加入を見送る |
| 高リスクの人 | 自分のリスクが高いことを知っている | 割安に感じて積極的に加入する |
つまり逆選択が原則です。情報の格差が、市場を「リスクの高い人だけの市場」に変えていく力として機能してしまうのです。
この問題はノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフ(George Akerlof)が1970年に発表した論文「The Market for Lemons(レモン市場)」で有名になりました。アカロフは中古車市場を例に取りながら、情報の非対称性がいかに市場を崩壊させるかを示しました。
中古車市場でも同じことが起きます。売り手は車の真の品質(欠陥の有無)を知っていますが、買い手には分かりません。買い手は「もしかしたら欠陥車(レモン)かも」と思って値引きを要求するため、良い車(ピーチ)を持つ売り手は損をすることになり、市場から撤退します。残るのは欠陥車ばかり。これが「逆選択によって良いものが市場から追い出される」現象です。
保険市場における逆選択はこれと全く同じ構造で起きています。
権威ある参考資料として、みずほ証券のファイナンス用語集でも逆選択の定義と影響が解説されています。
みずほ証券 ファイナンス用語集「逆選択」 — 取引前の情報の非対称性と非効率性の関係について解説
逆選択が一度始まると、それが連鎖的に悪化していくところが怖いところです。
まず保険会社は、加入者全体の「平均リスク」をもとに保険料を設定します。これは仕方のないことで、個人のリスクが完全には見えないため、平均値を使うしかありません。ここで問題が起きます。
健康な人にとってはその保険料が「割高」に感じられるため、加入を見送る人が増えます。その結果、残る加入者は健康に不安のある人、つまりリスクの高い人が多くなります。加入者全体のリスクが上がったため、保険会社は支払う保険金が増えて収益が圧迫されます。
そうなると保険会社はどうするかというと、保険料を引き上げざるを得ません。痛いですね。
保険料が上がると、また健康な人が「さらに割高になった」と感じてどんどん脱退していきます。残る加入者はさらにリスクの高い人ばかりに。保険会社はまた保険料を上げる……。この悪循環が続くと、最終的に保険市場そのものが成立しなくなる可能性があります。
保険料の値上がりは加入者全員に影響します。これが条件です。逆選択の問題は「保険会社の問題」ではなく、加入者である私たち全員の問題でもあるということですね。
実際のデータとして、ニッセイ基礎研究所(2019年)の調査では、日本の医療保険市場において健康のための行動を「している人」の医療保険加入率は約4割であったのに対して、健康行動を「何もしていない人」の加入率は約2割と、実に2倍の開きがあったことが確認されています。これは逆選択ではなく「アドバンテージャス・セレクション(逆選択の逆)」と呼ばれる現象で、日本では理論通りの逆選択とは異なる動きが見られることも興味深い事実です。
なぜこうなるのかというと、健康に気を使う人は「将来のリスクを真剣に考える傾向(低い時間割引率)」があり、同時に「曖昧なリスクを回避しようとする傾向(高い曖昧さ回避度)」を持つため、保険にも入りやすいと考えられています。
ニッセイ基礎研究所「健康管理に努めている人は医療保険に加入している確率が2倍」— 日本における逆選択の逆(アドバンテージャス・セレクション)の実証データ
金融や経済を学ぶ際に「逆選択」と同時に登場するのが「モラルハザード(Moral Hazard)」という概念です。この2つは混同されやすいですが、発生するタイミングと原因が全く異なります。
逆選択は、契約前に情報の非対称性が存在することで起きます。どういうことでしょうか?保険に入る前の段階で、加入者が自分の高いリスクを隠したままでも加入できてしまうことが問題です。
モラルハザードは、契約後に起きる問題です。保険に入ったことで、当事者が注意を怠るようになる行動の変化を指します。たとえば、盗難保険に入った人が「どうせ保険で補填される」と思って車の鍵をかけなくなったり、医療保険に加入している人が必要以上に長く入院しようとするケースが典型的な例です。
| 比較項目 | 逆選択 | モラルハザード |
|---|---|---|
| 発生タイミング | 契約前(事前) | 契約後(事後) |
| 問題の本質 | 隠れた情報(Hidden Information) | 隠れた行動(Hidden Action) |
| 具体例 | 持病を隠して安い保険に加入する | 保険加入後にリスクの高い行動を取る |
| 経済学用語 | Adverse Selection | Moral Hazard |
結論はシンプルです。「入る前の問題」が逆選択で、「入った後の問題」がモラルハザードということですね。
どちらも根本には「情報の非対称性」があります。保険会社は加入者の本当のリスクや行動を完全には観察できないため、こうした問題が必然的に発生してしまいます。これは経済学でいう「エージェンシー問題」の代表的な例であり、金融市場や雇用市場など幅広い場面で同じ構造が現れます。
逆選択とモラルハザードを区別できると、ファイナンシャルプランニング技能検定(FP試験)や中小企業診断士試験の経済学分野でも頻出テーマとして対応しやすくなります。これは使えそうです。
逆選択の問題を防ぐために、保険の世界ではさまざまな仕組みが設けられています。最も基本的なものが「告知義務(こくちぎむ)」です。
告知義務とは、保険加入時に自分の健康状態や職業などのリスク情報を、正確に保険会社に伝える義務のことです。生命保険や医療保険に加入する際には、過去5年以内の入院歴や手術歴、現在治療中の病気や服薬状況などを申告することが求められます。
告知義務が基本です。保険会社はこの情報をもとに「危険選択(アンダーライティング)」を行い、リスクに応じた保険料を設定したり、加入を断ったりすることで、逆選択の発生を抑えています。
では告知義務に違反するとどうなるのでしょうか?故意または重大な過失によって事実を告知しなかったり、虚偽の申告をした場合は「告知義務違反」として保険契約が解除されることがあります。さらに、告知義務違反があった場合には、保険金や給付金が受け取れなくなる可能性があります。
「少し体の具合が悪いのを隠して入れば保険料が安くなる」と思う人もいるかもしれません。しかしこれはまさに逆選択そのものであり、保険会社に発覚した場合は契約が解除され、肝心なときに保険金が受け取れないという大きなデメリットを招きます。
これに加えて、保険会社が逆選択を防ぐために取る主な対策は以下の通りです。
国民皆保険は、逆選択対策として経済学的に最も有効なアプローチのひとつと評価されています。全員が強制的に加入するため、リスクの高低に関わらず全国民がプールに入り、逆選択が生じる余地がなくなります。これが原則です。
生命保険文化センター「病歴があったのに告知するのを忘れていたら?」— 告知義務と保険金への影響についての公的機関による説明
逆選択は保険だけの話ではありません。金融市場全般に広く存在する現象です。この視点を持つことで、投資判断や金融商品の選択にも役立てることができます。
中古車市場(レモン問題)
最もよく知られているのが、アカロフが分析した中古車市場のレモン問題です。中古車を売りたい人は、その車の真の品質(隠れた傷や欠陥)をよく知っています。しかし買い手には外観からしか判断できません。買い手は「もしかしたら欠陥車かも(レモンかも)」と疑うため、適正価格より低い値段しか提示しません。すると、欠陥のない良い車を持つ売り手は「こんな安値では売れない」と市場から離れ、欠陥車(レモン)だけが流通するようになります。
意外ですね。情報の格差が、良い商品を市場から「追い出す」方向に働くわけです。
株式市場(情報開示と逆選択)
株式市場でも逆選択は起きます。例えば、会社の経営者は自社の本当の業績や将来性を投資家よりもよく知っています。会社の業績が実は悪いと知っている経営者が、それを隠して株式を発行・売却すれば、投資家は「過大評価された株式」を買わされることになります。
これが株式市場における逆選択の典型的な構造です。だからこそ金融市場では、有価証券報告書の提出義務や財務諸表の開示規制が設けられています。情報開示制度は、逆選択を抑制するための社会的な仕組みのひとつと言えます。
労働市場への応用
就職・転職市場も逆選択が起きやすい場所のひとつです。求職者は自分のスキルや能力をよく知っていますが、採用企業は面接だけでは正確には判断できません。企業が平均的な給与水準を提示すると、高いスキルを持つ人材は「これでは安すぎる」と応募せず、スキルの低い人ばかりが集まってしまうという逆選択が生じる可能性があります。
この問題に対する解決策として、学歴・資格・職歴といった「シグナリング(Signaling)」の仕組みが機能しています。シグナリングとは、情報の優位な側(求職者)が、自分の質の高さを証明するために資格取得や学歴などのコスト(努力)を積んで示すことで、情報の格差を縮める行為です。
このように逆選択は、「売り手と買い手の情報が等しくない場所」であればどこでも発生し得ます。金融に興味を持つなら、この構造を理解しておくことは非常に有益です。
野村證券のレモン市場解説ページでも、この現象のメカニズムが詳しく説明されています。
野村證券 証券用語解説集「レモン市場」— 情報の非対称性と逆選択の関係について
逆選択の概念を知ったからには、それを日常の金融行動に活かすことが大切です。理論を理解するだけでなく、「では自分はどうすれば損をしないか」という視点を持つことで、より賢明な意思決定ができます。
保険加入時に意識すること
まず保険については、告知義務を正確に守ることが最重要です。都合の悪い情報を隠して安い保険に入っても、いざ請求する際に発覚すれば保険金が一切受け取れなくなります。これは健康や生活に関わる重大なリスクです。
一方で、リスクに応じた保険選びも重要です。喫煙しているなら非喫煙者向けの割安な保険には入れませんが、自分のリスクに合った保険料の商品を選ぶことで、保険料と保障のバランスを適切に取ることができます。
最近は「健康増進型保険」と呼ばれる商品も登場しています。日々の歩数や健診結果をアプリで連携し、健康行動が証明できた分だけ保険料が割引されるタイプの保険です。これはまさに逆選択の対策を商品設計に組み込んだものと言えます。保険会社がリスクの低い人を選ぶのではなく、加入者が健康行動によって自らリスクを下げる仕組みです。
投資における情報の格差への対処
株式投資や投資信託の選択において、逆選択の視点を持つことは重要です。情報開示が不十分な企業や、過度に「うまい話」を強調する金融商品には、逆選択的な構造が潜んでいる可能性があります。
情報を十分に持つ側(発行体・販売者)が自分に有利な時だけ取引を持ちかけてくる場合、購入者側は不利な立場になりやすいです。これが条件です。したがって、投資判断では第三者機関によるレーティングや、有価証券報告書・目論見書など公式の開示資料を自分で確認する習慣が大切になります。
「情報を持っている側が有利」という逆選択の本質を理解しておけば、取引相手がどの程度の情報を持っているかを意識する習慣が身につきます。これはなかば防御本能となり、詐欺的な金融商品や情報格差を悪用した取引から自分を守る基盤になります。
保険・投資いずれの場面においても、「自分に不利な情報格差が生じていないか?」と問いかける思考習慣を持つことが、賢い金融行動の第一歩です。
生命保険文化センターは公的な機関として、保険の仕組みや正しい加入方法について中立的な情報を提供しています。
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