

債券なのに、銀行が破綻していなくてもあなたの元本が2兆円規模でゼロになることがある。
AT1資本(Additional Tier1)とは、バーゼルIII規制における銀行の自己資本の階層構造の中で、「その他Tier1」に位置づけられる資本のことです。日本語では「追加的Tier1」や「その他Tier1」とも訳され、金融機関が発行するAT1債(Additional Tier1債)が代表的な調達手段として広く普及しています。
そもそもバーゼル規制とは、国際決済銀行(BIS)のバーゼル銀行監督委員会(BCBS)が策定した、銀行の健全性を守るための国際的なルール体系です。2008年のリーマン・ショックで多くの大手金融機関が公的資金投入(ベイルアウト)を受けたことへの反省から、「銀行が自ら損失を吸収できる質の高い資本を十分に持つ」という方向へ規制が大幅に強化されました。それがバーゼルIIIです。
バーゼルIIIでは、銀行の自己資本を「損失吸収力の強さ」に応じて大きく3層に分類しています。
- CET1(普通株式等Tier1):最も質が高く、普通株式・内部留保などで構成。国際基準行は最低4.5%(資本保全バッファー込みで7%)が求められます。
- AT1(その他Tier1):CET1を補完する形で自己資本に算入できる資本。AT1債(永久劣後債)の形で発行されることが多いです。
- Tier2(補完的項目):期限付き劣後債などが該当し、いわゆる「安全に破綻するための資本」として位置づけられます。
つまりAT1は基本的です。
Tier1全体として最低6.0%、総自己資本比率として最低8.0%が国際統一基準行に求められており、AT1はCET1だけでは不足する部分を補う役割を担っています。AT1債(Additional Tier1債)は、この規制要件を満たすために金融機関が発行する、まさに「規制が生み出した金融商品」と言えます。
重要なのは、AT1が「ゴーイング・コンサーン・キャピタル(going-concern capital)」に分類されている点です。これは「銀行が生き延びている間に損失を吸収するための資本」を意味します。Tier2が「銀行が破綻する際に安全に清算するための資本(ゴーン・コンサーン・キャピタル)」であるのとは対照的で、AT1はより早い段階、つまり破綻前から損失吸収が求められる構造になっています。この特性が、後述する大きなリスクの源泉となっています。
財務省「AT1債およびバーゼルIII適格Tier2債(BIIIT2債)入門」(東京大学・服部孝洋氏著):AT1債・Tier2債の仕組みと規制要件を詳細に解説した一次資料
AT1債は見た目こそ「債券」ですが、その実態は通常の社債とは根本的にリスク構造が異なります。この点を正確に理解していないと、思わぬ損失を被ることになります。AT1特有のリスクは大きく3つあります。
① ゴーイング・コンサーン・トリガーによる元本削減
AT1債には「ゴーイング・コンサーン・トリガー」と呼ばれる条件が付いています。具体的には、発行銀行の連結CET1比率が5.125%を下回った場合、AT1債の元本が強制的に削減される仕組みです。しかも、5.125%を大きく下回るほど削減額も大きくなるという、いわば「下がれば下がるほど被害が拡大する」構造になっています。
破綻前でも発動する点が重要です。銀行が倒産していなくても、財務が悪化してCET1比率がこの水準を割り込めば、投資家は保有するAT1債の元本を失います。例えば100万円分のAT1債を持っていた場合、ある日突然その一部がゼロになるという事態が、銀行が営業を続けている最中にも起こりえます。
② 利払い(クーポン)の停止リスク
通常の社債では、発行体が約束した利息を支払わなければデフォルト(債務不履行)として扱われます。しかしAT1債では、利払いは発行体の裁量に委ねられており、銀行が判断すればクーポンをスキップ(停止)しても法的なデフォルトとはみなされません。これは株式の配当と同様の性質で、「支払わなくても問題ない」という設計になっています。
実際には利払い停止は発行体にとってシグナルコスト(市場への悪影響)が大きいため安易には行われませんが、制度上は可能です。これは条件が必須です。
③ コール(早期償還)の延長リスク
AT1債は原則として満期のない永久債ですが、多くの場合「発行後5年」「発行後10年」などのタイミングで発行体が早期償還(コール)できる権利が設定されています。これを市場では「ノンコール5年(NC5)」「ノンコール10年(NC10)」と呼びます。投資家はこの初回コール日に償還されることを前提に利回りを計算することが多いのですが、発行体がコールを行使しない場合、投資家は想定外の期間、資金を拘束され続けることになります。コール延長は投資家の利回り計算を大きく狂わせるため、見落としがちな重大なリスクの一つです。
野村證券「証券用語解説集:AT1債」:AT1債の基本的な定義とリスク特性をコンパクトにまとめた解説
AT1資本のリスクが世界に広く知れ渡ることになったのが、2023年3月に起きたクレディ・スイスAT1債無価値化事件です。これはAT1資本の歴史において最大の転換点となりました。
スイスの金融大手クレディ・スイスは、2022年12月期に2期連続赤字を記録し、複数の不祥事も重なって経営危機に陥りました。スイス金融当局(FINMA)は2023年3月19日、ライバル行であるUBSによるクレディ・スイスの救済買収を発表するのと同時に、クレディ・スイスが発行していたAT1債、総額160億スイスフラン(当時のレートで約2兆4,000億円)の価値を全額ゼロにすると発表しました。
衝撃的だったのは、株主は損失を免れたのに債権者(AT1債保有者)が全損したことです。
通常、企業が清算・破綻する場合、返済の優先順位(弁済順位)は「社債など債権者が株主より先に弁済を受ける」のが大原則です。ところがこの件では、株主はUBSとの株式交換によって一定額の価値を受け取れた一方、AT1債保有者は文字通り100%の損失を被りました。この「弁済順位の逆転」が世界の金融市場に大きな波紋を広げました。
なぜこのようなことが起きたのか。実は答えはAT1債の発行条件(目論見書)に書かれていました。スイスのAT1債には「PONV(Point of Non-Viability:実質破綻認定)条項」に加え、スイス当局が判断すれば株主よりも先にAT1債を消却できる条件が明示されていたのです。多くの投資家がこの条件を詳しく確認せずに購入していたこと、そしてプロでも見落としがちな複雑な商品性だったことが、この事件が「知らないと致命的な損失につながる」という教訓を残した理由です。
この事件を受けてEUや英国の規制当局は「株主が先に損失を受けるという原則は維持する」と表明しましたが、スイス当局の決定は撤回されず、AT1債保有者の損失は確定しました。また、コーエーテクモホールディングスは同社のAT1債を41億円保有しており、2023年3月期決算でその全額を損失計上しています。日本の企業もダメージを受けた事件でした。
ロイター「クレディ・スイス『AT1債』、無価値の波紋」:欧州規制当局の反応と市場への影響を詳細にまとめた一次報道
日本でもAT1債は主要な金融機関を中心に継続的に発行されており、今や国内資本市場に定着した商品カテゴリとなっています。その実態を把握しておくことは、投資判断の上で欠かせません。
日本の発行状況
日本では2015年ごろから邦銀のAT1債発行が本格化しました。2015年7月にはみずほフィナンシャルグループと三井住友フィナンシャルグループがそれぞれ3,000億円規模のAT1債を発行。三菱UFJフィナンシャル・グループも2015年10月に国内初の公募AT1債(個人投資家向け)を発行しています。3メガバンクのAT1債発行残高は合計で約3.6兆円(2023年時点)に達しており、規模は決して小さくありません。円建てでの発行が主流で、米ドル建て等の外貨建てAT1債も一定数発行されています。
利回りの実態
利回り水準は発行時期や市場環境によって変動しますが、一例として三菱UFJフィナンシャル・グループが2023年5月に発行した3,300億円のAT1債では、表面利率は5年物が1.804%、10年物が2.127%という条件でした。これは同時期の一般的な社債や国債と比べ高い水準ですが、後述するリスクを考えると、「高い利回り=高いリスクの対価」という理解が必要です。これは使えそうです。
クレディ・スイス事件後は、欧州を中心にAT1債の平均利回りが一時10%程度まで急騰(価格下落)しました。利回りが高い=それだけ市場が高いリスクを意識しているというサインでもあることを、投資家は常に意識しておく必要があります。
個人投資家はどう向き合うべきか
AT1債は一般的に機関投資家向けの商品として設計されており、証券会社が個人投資家へ販売する際には「特定投資家向け」として勧誘規制の枠組みが適用されます。AT1債への投資を検討する場合には、目論見書のトリガー条件・PONV条項・コール条件をすべて自分で確認することが前提です。「社債だから安心」という先入観は危険です。格付けや利回りだけでなく、発行体の自己資本比率の動向をモニタリングする習慣をつけておくと、リスク管理に役立ちます。
金融の世界において、AT1資本(Additional Tier1)は「高利回りが得られる優良金融機関の債券」として紹介されることがしばしばあります。しかし実態は、この説明は正確ではありません。AT1債の利回りは「高くして当然」なのであり、その本質を理解せずに飛びつくのはリスクを取り過ぎることを意味します。
なぜ高利回りが設定されるのかを整理すると、答えは明確です。AT1債を買う投資家は、①破綻前でも元本が消えるリスク、②利払いが止まるリスク、③満期がなく資金が長期拘束されるリスク、という3つの特殊なリスクを引き受けています。発行体はこれらのリスクを投資家に負わせる対価として高い利回りを支払っているのです。つまり、高利回りはリスクの「補償」であって、「得」ではありません。
AT1資本が「中間的な性質」を持つことの意味は深いです。
株式は企業の所有権であり、業績好調時には大きなリターンが得られます。一方で社債(シニア債)は約束通りに利息が支払われ、元本も返ってくる安全性があります。AT1債はこの間にある商品ですが、「株式のように元本を失うリスクがあるのに、株式のように業績好調時の恩恵(値上がり益)は限定的」という、ある意味で「両方のデメリットを受ける可能性がある」商品とも解釈できます。
ここに、AT1資本の本当の難しさがあります。発行体の財務状態が悪化すれば元本削減というダウンサイドを受けながら、発行体が好調でもAT1債投資家のリターンは利回りに限定されます。株式への投資なら「銀行が利益を出せば株価が上昇する」という追加リターンがありますが、AT1債にはそれがありません。
高利回り債券として選ぶ際の実践的な確認ポイントは以下の通りです。
- 発行体の直近のCET1比率と5.125%のトリガーまでの乖離幅を確認する(乖離が小さいほど元本削減リスクが高い)
- ノンコール期間(NC5、NC10など)と初回コール日を把握し、コール延長時の「実質利回り」を試算する
- 格付け機関の評価を参照するが、格付けがAT1固有のリスク(PONV条項や裁量的クーポン停止)を十分反映しているかを疑う姿勢を持つ
- 同じ発行体のシニア債(通常の社債)と利回りを比較し、「その差分が引き受けるリスクに見合うか」を冷静に判断する
AT1資本の格付けはCET1より低い水準が一般的です。
例えば、日本格付研究所(JCR)の分析によると、邦銀のAT1債はシニア債と比べて通常2〜3ノッチ程度低い格付けが付されています。格付けの差は「リスクの差」を端的に示しており、これを無視して利回りだけに注目するのは投資判断として不十分です。
AT1資本への投資を検討するなら、まず格付け機関各社のAT1債分析レポートや、財務省・金融庁が公開している規制解説資料を読み込んでおくことを勧めます。理解に時間がかかるほど複雑な商品であることが、そのままリスクの複雑さを示しています。知識が条件です。
日本格付研究所(JCR)「邦銀等のAT1債のノッチング」:邦銀AT1債の格付け方針とシニア債との格差を解説した一次資料
AT1資本(Additional Tier1)は、バーゼルIII規制を背景に誕生した、株式と債券の間に位置するハイブリッド証券です。記事全体を通じて解説してきた内容を整理すると、AT1資本を正しく理解するための核心は5つにまとめられます。
| 要点 | 内容 |
|------|------|
| ① 規制上の役割 | 銀行のTier1資本を補完する「その他Tier1」。バーゼルIIIにおける国際統一基準行のTier1比率6.0%達成に不可欠な資本 |
| ② 元本削減トリガー | 連結CET1比率が5.125%を下回ると発動。破綻前でも元本がゼロになるリスクがある |
| ③ 利払い停止リスク | クーポンは発行体の裁量で停止可能。法的デフォルトにならないまま利息がゼロになりうる |
| ④ クレディ・スイス教訓 | 2023年3月、約2.4兆円のAT1債が無価値化。株主より先に債権者が全損という弁済順位の逆転が現実に起きた |
| ⑤ 日本市場の現状 | 3メガバンクで計約3.6兆円のAT1債が発行済み。三菱UFJFGの2023年発行条件は利率1.804〜2.127%(円建て) |
AT1資本への理解を深めることは、金融機関の財務健全性分析や、規制資本という概念そのものへの理解にも直結します。「社債は安全で株式はリスクが高い」という単純な二項対立が通用しない商品が現代の金融市場には存在します。AT1資本はその最たる例と言えます。
AT1資本に関する規制や市場慣行は継続的に変化しています。特に2023年のクレディ・スイス事件以降、欧米規制当局は発行条件の明確化や投資家向けの情報開示強化に取り組んでおり、今後も目を離せない分野です。最新の動向については、金融庁や日本銀行が公開する資料、あるいはBIS(国際決済銀行)のウェブサイトで定期的に情報をアップデートすることを勧めます。
日本銀行「バーゼル合意、バーゼルI・II・IIIとは何ですか?」:BIS規制の全体像を平易な言葉で説明した公式解説ページ