

「価格が最良でなくても、証券会社は最良執行義務に違反しない場合がある。」
最良執行義務とは、証券会社などの金融商品取引業者が、顧客から受けた上場株式等の売買注文を「最良の取引条件」で執行するための方針・方法を定め、それに従って注文を処理する義務のことです。根拠となる法律は、金融商品取引法(金商法)第40条の2であり、2005年4月1日に施行されました。
それ以前の日本では、この義務は証券取引法の誠実義務規定(旧33条)や民法の善管注意義務から解釈で導かれると考えられていたものの、明文の規定はありませんでした。規制として不十分だという課題が長年指摘されていたのです。
では「最良の取引条件」とは何か。これが、多くの投資家が誤解しやすい部分です。
「最良」=「最も安い買値・最も高い売値」と思い込んでいる方は少なくありません。しかし、法令・金融庁の解釈上は、価格のみならず以下の要素を総合的に勘案して決めるものとされています。
つまり「価格だけ」を基準にするのではなく、価格・コスト・スピード・確実性などのバランスが問われる、ということです。
重要な点をもう一つ挙げます。証券会社が守るべきは「最良の結果を出すこと」ではなく、「最良執行方針等に従って執行すること」です。各証券会社の最良執行方針には、野村證券・みずほ証券・モルガン・スタンレーなど大手各社を含め、ほぼ例外なく次のような一文が記載されています。
「価格のみに着目して事後的に最良でなかったとしても、それのみをもって最良執行義務の違反には必ずしもなりません。」
つまり、方針通りに動いていれば法令違反には問われにくい構造になっています。これが制度の核心です。
参考:日本証券業協会による最良執行義務の定義
最良執行義務 - 日本証券業協会 用語集
最良執行義務の対象となる有価証券は、主に上場株式を中心とした金融商品です。証券会社(および銀行等の登録金融機関)に義務が課されています。一方、機関投資家・運用会社など「注文を出す側」には、金商法上の直接的な義務は課されていません。これは意外に知られていないポイントです。
義務が課される内容は、次の4つです。
策定された最良執行方針は、各証券会社のウェブサイト上で公開されており、誰でも確認できます。銘柄ごとに「どの市場に取り次ぐか」「なぜその方法を選ぶのか」を記載することが求められています。
たとえば、一般的な大手証券会社・ネット証券の方針を見ると、「東証プライム市場に上場する銘柄は、東証へ取り次ぐ」という内容が基本とされてきました。流動性が最も高い市場で執行することが「最良の取引条件の一つ」に該当するという解釈に基づいています。
しかし、PTS(私設取引システム)やダークプール(証券会社内で売買注文を付け合わせる仕組み)の存在感が増してきた近年、東証一択という判断が必ずしも「価格面で最良」とは言えない状況が生じてきました。この変化が、2023年改正の背景にあります。
なお、最良執行方針に記載する内容の変更があった場合、証券会社は改訂した方針を速やかに公表し、顧客に対して適切に通知することが求められています。方針は一度作って終わりではなく、定期的な見直しが求められているということです。
参考:金融庁による最良執行方針等の規制に関する資料
事務局説明資料(金融商品取引業者等の最良執行方針等について)- 金融庁
2022年5月に金融商品取引法施行令・内閣府令・金融商品取引業者等向けの総合的な監督指針が改正され、2023年1月1日から施行・実施されました(既存の最良執行方針等については1年間の経過措置あり)。
この改正の主なポイントは3つです。
① 個人投資家向けに「価格優先」がより強く求められた(コンプライ・オア・エクスプレイン)
それまでの最良執行方針では、多くの証券会社が「流動性・スピード・執行確実性を重視して東証に取り次ぐ」という内容で対応しており、価格優先の比較は十分に行われていませんでした。しかし、2023年改正以降は個人顧客の注文については「価格が最も重要な要素」という方針が原則化されました。
最良の価格以外の要素を優先して執行する場合には、その旨と理由を最良執行方針等に明記しなければなりません。これを「コンプライ・オア・エクスプレイン(実施するか、さもなければ説明するか)」方式と呼びます。実施しないなら、なぜ実施しないかを公開説明しなさい、というルールです。
② SOR(スマート・オーダー・ルーティング)の透明化
SORとは「Smart Order Routing」の略で、東証・PTS・ダークプールなど複数の取引施設を自動的に比較し、最も有利な価格の市場に注文を回送するシステムです。
2023年改正以降、SORを使用する場合は、最良執行方針等に次の事項を記載することが義務付けられました。
レイテンシー・アービトラージとは、HFT(高速取引業者)が複数市場間の価格差と時間差を利用する取引戦略のことです。個人投資家の注文が不利な影響を受けないように、証券会社の対応方針を開示させる狙いがあります。
③ ダークプール使用時の開示義務
個人顧客の注文をダークプールに回送する場合、その旨と理由を最良執行方針等に記載することが義務化されました。ダークプールは機関投資家向けの大口取引で使われてきた仕組みですが、近年は個人投資家向けにも広がっており、透明性の確保が課題となっていました。
これらの改正は、実は大きな変革です。
改正前は「大半の証券会社が個人投資家の注文を東証のみに取り次ぐだけ」という状態でした。法律上は違反でなかったのです。SBI証券・楽天証券・auカブコム証券・マネックス証券など一部のネット証券はすでにSORに対応していましたが、改正後はより広範な証券会社で価格比較体制の整備が進みました。
参考:最良執行方針等の規制の見直しを詳しく解説した大和総研レポート
最良執行義務の中で、特に活用している投資家が少ないのが「最良執行説明書」の制度です。
知っておいて損はない制度です。
最良執行説明書とは、自分が出した注文が「最良執行方針等に従って執行されたこと」を証券会社が説明した書面です。金融商品取引法第40条の2第5項に基づく制度であり、以下のルールで機能しています。
3ヶ月という期間は実はかなり短く、気づいたときには請求期限を過ぎていた、というケースも起こりえます。注意が必要です。
この制度は、制度上は「投資家の権利」ですが、証券会社側から積極的に案内されることは少ないのが現状です。自分の取引が方針通りに執行されたか確認したい場合は、自ら証券会社に請求する必要があります。
方針に従った執行である限り、証券会社は法的責任を免れる立場にあります。しかし、方針の内容自体が顧客利益に反するような不当な設定(例:PTS経由でより有利な価格を得られるのに、それを顧客に提供せず自社がスプレッドを得る等)であれば、その方針自体が金商法違反になりうるとされています。
つまり、投資家が自衛するための一つの手段として、この最良執行説明書を活用することが考えられます。取引金額が大きい場合や、約定結果に疑問を感じたときには、3ヶ月以内に請求してみることが有効です。
参考:金融庁による最良執行説明書の制度説明を含む資料
SOR(スマート・オーダー・ルーティング)が個人投資家の取引にどう影響するかを、具体的に見てみましょう。
日本では現在、取引所(東証など)に加え、ジャパンネクスト証券(JNX)・大阪デジタルエクスチェンジ(ODX)などのPTSが株式売買の場を提供しています(2025年8月にはCboeジャパンがPTS業務を終了)。
SORが導入されると、これらの取引施設間の価格が自動比較されます。たとえば、東証で株を1,000円で買おうとしたとき、PTSが999円の売り注文を提示していれば、SORはそちらに注文を回送し、1円有利に約定できます。1回あたりの差額は小さくても、年間を通じた取引回数が多ければ積み重なります。
SORを導入済みの主要ネット証券には、SBI証券・楽天証券・auカブコム証券・マネックス証券などがあります。これらはいずれも2023年改正以前からSORに対応しており、個人投資家にとっての選択肢は現実的に存在していました。
ただし、SOR注文には注意点もあります。SOR注文を使うと、逆指値注文や一部の執行条件付き注文が使えないケースがある点です。価格面では有利になる可能性がある一方、注文方法に制約が生まれることがあります。
これは使い分けが大切ということです。
また、SOR利用時に「自社または自社と系列・友好関係にある証券会社が運営するPTSやダークプールが優先選択されている場合」は、2022年改正以降、利益相反に関する開示が義務付けられています。つまり、投資家にとって本当に最良かどうかについて、証券会社の最良執行方針等の記載を読み比べることが有益です。
証券会社を選ぶ際には、SORの対応状況や比較対象の取引施設の種類・数を確認する習慣をつけることが、取引コストを実質的に削減する方法の一つになります。
参考:ジャパンネクスト証券によるSOR導入後の個人投資家向け価格改善効果の解説
【2023年改正】最良執行方針が個人投資家の取引価格に与える影響(ジャパンネクスト証券)