
効率的市場仮説とは、「利用可能な情報が完全に価格に反映される市場」を指す概念です。この仮説によれば、株式市場では入手可能なすべての情報がすでに価格に織り込まれているため、誰も市場平均を上回るリターンを継続的に得ることはできないとされています。しかし、この仮説に対しては多くの反論が存在し、金融工学や行動経済学の分野で活発な議論が続いています。
効率的市場仮説の最大の問題点は、そもそもこの仮説が科学的に検証できないという点にあります。「利用可能な情報」という概念が漠然としすぎており、「完全に反映」という状態も明確に定義されていないため、何をもって仮説が否定されるのかが不明確なのです。
この問題は「結合仮説問題」とも呼ばれ、市場効率性を検証するためには効率的な価格設定のモデル化が必要になりますが、モデルと現実の乖離が生じた場合、それが市場の非効率性によるものなのか、モデル自体の不完全性によるものなのかを区別できません。
実際、どのような観測事実が得られても、様々な解釈によって効率的市場仮説が成立しているとも成立していないとも言えてしまうという問題があります。例えば、バブルとその崩壊についても、「一時的に企業価値が増大し、その後下落した」と解釈すれば、市場は効率的だったと主張することも可能です。
このように、効率的市場仮説は本来なら検証可能な形に発展・修正されるべきですが、そのような方向への発展が十分になされていないことが、50年以上にわたる議論が決着しない理由の一つとなっています。
効率的市場仮説に対する強力な反論の一つが、バブルの発生とその崩壊です。行動ファイナンス理論の観点からは、効率的市場仮説ではバブルの発生や崩壊を適切に説明できないという批判があります。
2000年代後半の世界金融危機(リーマンショック)は、市場の合理性への過信が招いた結果とも言われています。効率的市場仮説を信じるあまり、市場参加者や規制当局が潜在的なリスクを過小評価し、結果として巨大なバブルが形成され、その崩壊が世界経済に甚大な影響を与えました。
行動ファイナンス理論では、投資家は必ずしも合理的ではなく、感情や心理状況に左右されるため、誤ったコンセンサスの均衡状態が続くことで、企業業績などのファンダメンタルズから大幅に乖離した価格が一定期間続く可能性があると説明します。これは効率的市場仮説の前提と明らかに矛盾します。
2013年のノーベル経済学賞が、効率的市場仮説を提唱してきたユージン・ファーマ氏と、それに批判的な立場の行動ファイナンス派のロバート・シラー氏の両方に授与されたことは、この論争の重要性と複雑さを象徴しています。
効率的市場仮説に反する現象は「アノマリー」と呼ばれ、多くの実証研究によってその存在が確認されています。代表的なアノマリーには以下のようなものがあります:
特に注目すべきは低ボラティリティ効果で、低ボラティリティ運用の中長期のリターンが、より価格変動リスクの高い市場平均を上回ったとする実証研究結果が報告されています。これは効率的市場仮説の根幹を揺るがす発見と言えるでしょう。
効率的市場仮説の擁護者は、これらのアノマリーについて「小型株はリスクが高いのでその対価としてリターンを得ているだけ」というリスクプレミアム説などで説明しようとしますが、すべてのアノマリーを合理的に説明することは困難です。
効率的市場仮説の反論として、実験市場や人工市場での研究結果も重要な示唆を与えています。これらの研究では、市場環境の一部の要素をコントロールすることで、効率的な市場が成立するための条件を検証しています。
その結果明らかになったのは、効率的な市場が成立するための条件は非常に厳しいということです。ちょっとした要因で市場の効率性は崩れてしまうことが、多くの実験市場による研究で示されています。
例えば、以下のような条件が満たされない場合、市場は効率的でなくなる可能性があります:
実際の市場では、これらの条件がすべて満たされることはほとんどありません。取引コストは常に存在し、情報の非対称性も避けられません。また、投資家の分析能力や反応速度にも限界があります。
このように、実験市場の研究結果は、理論上の効率的市場と実際の市場との間には大きな隔たりがあることを示唆しています。
効率的市場仮説と行動ファイナンス理論は長らく対立する概念として捉えられてきましたが、近年では両者を統合する新たなモデルの構築が試みられています。
従来の効率的市場仮説では、市場参加者は完全に合理的であることが前提とされていましたが、実際の人間の意思決定は認知バイアスや感情に影響されることが心理学的研究から明らかになっています。行動ファイナンス理論はこの点に着目し、市場参加者の非合理的行動が市場にどのような影響を与えるかを研究してきました。
新たな統合モデルでは、市場の効率性は絶対的なものではなく、相対的な概念として捉え直されています。つまり、市場は完全に効率的でも完全に非効率的でもなく、様々な要因によって効率性の度合いが変動するという考え方です。
このモデルによれば、市場の効率性は以下の要因によって影響を受けます:
特に注目すべきは「適応的市場仮説」と呼ばれるアプローチで、これは進化論的な観点から市場の効率性を説明しようとするものです。この仮説によれば、市場参加者は環境に適応して学習し、その結果として市場の効率性は時間とともに変化するとされています。
このような新たな統合モデルは、効率的市場仮説の単純な否定ではなく、より現実的で柔軟な市場理解を提供するものとして注目されています。
以上のように、効率的市場仮説には多くの反論が存在し、完全に効率的な市場という概念は理想化されたモデルに過ぎないと考えられています。しかし、市場の効率性を相対的な概念として捉え直すことで、より現実的な市場理解が可能になるでしょう。
金融工学や投資戦略を考える上では、効率的市場仮説の限界を理解しつつ、市場の非効率性をどのように活用できるかを検討することが重要です。完全に効率的でも完全に非効率的でもない現実の市場において、最適な投資戦略を構築するためには、両方の視点からのアプローチが必要となるでしょう。