
ロバート・ジェームズ・シラー(Robert James Shiller)は、1946年3月29日にデトロイトで生まれたアメリカの経済学者です。現在はイェール大学の教授として、金融経済学と行動経済学の分野で活躍しています。シラーは53年間にわたる研究活動の中で、105の学術論文、174の研究論文、9冊の著書、16の章を執筆し、18,132もの引用を受けるなど、経済学界に多大な貢献をしてきました。
シラーの研究は、従来の効率的市場仮説に疑問を投げかけ、投資家の心理や社会的要因が市場に与える影響を分析する新しいアプローチを提示しました。特に、資産価格の変動が合理的な要因だけでなく、投資家の非合理的な行動によっても引き起こされることを実証的に示した点が高く評価されています。
彼の研究は単なる理論にとどまらず、ITバブルやサブプライムローン危機など、実際の経済危機を予測する上でも重要な役割を果たしました。このような実践的な貢献が認められ、2013年にはユージン・ファマ、ラース・ピーター・ハンセンとともにノーベル経済学賞を受賞しています。
シラーの代表的著書「根拠なき熱狂」(Irrational Exuberance)は、2000年に出版されました。この著書でシラーは、当時急上昇していた株価が実体経済の基礎的条件から乖離していることを指摘し、ITバブルの崩壊を予測しました。
「根拠なき熱狂」という言葉自体は、当時のFRB議長アラン・グリーンスパンのスピーチから取られたものですが、シラーはこの概念を深く掘り下げ、投資家の非合理的な行動がどのようにバブルを形成するかを分析しました。
特に注目すべきは、シラーが開発した「シラーPE比率」(CAPE:Cyclically Adjusted Price Earnings ratio)です。これは、過去10年間の平均収益で調整した株価収益率で、長期的な市場の割高・割安を判断する指標として広く使われています。このシラーPE比率は、ITバブル崩壊前の2000年初頭に史上最高値を記録し、シラーの予測の正確さを裏付けました。
さらに、2005年の第二版では住宅市場のバブルに警鐘を鳴らし、2007年から始まったサブプライム危機も的確に予測しました。このような先見性は、彼の研究の実践的価値を示すものとして高く評価されています。
シラーの研究業績の中でも特に実用的な貢献として挙げられるのが、ケース・シラー住宅価格指数(S&P/Case-Shiller Home Price Indices)の開発です。この指数は、カール・ケースとの共同研究によって開発され、アメリカの主要都市の住宅価格動向を追跡する重要な指標となっています。
ケース・シラー住宅価格指数の特徴は、同一物件の繰り返し売買データを使用する「リピート・セールス法」を採用している点です。これにより、住宅の品質変化による価格変動を排除し、純粋な市場価値の変動を捉えることができます。
2013年の論文「Wealth Effects Revisited 1975-2012」では、ケースやクイグリーとともに、住宅価格の変動が消費に与える影響(資産効果)を分析し、住宅資産の価値変動が株式資産よりも消費に大きな影響を与えることを実証しました。
また、シラーは不動産デリバティブの価格設定フレームワークについても研究を行っており、2012年の論文「A Pricing Framework for Real Estate Derivatives」では、不動産市場のリスク管理に新たな視点を提供しています。
シラーの研究の中核を成すのが、行動ファイナンス(行動金融学)の分野です。従来の効率的市場仮説では説明できない市場の異常現象を、投資家の心理や社会的要因から解明しようとする試みです。
シラーは、投資家が完全に合理的ではなく、様々な心理的バイアスや社会的影響を受けて意思決定を行うことを指摘しました。例えば、投資家は他の投資家の行動を模倣する「群集行動(ハーディング)」や、最近の出来事に過度に反応する「近視眼的損失回避」などの傾向があります。
2014年の論文「Speculative Asset Prices」では、資産価格の変動が投資家の投機的行動によって引き起こされるメカニズムを分析し、バブルの形成過程を理論的に説明しています。
また、シラーは投資家の期待形成にメディアが与える影響も研究しており、ニュースや報道が市場センチメントをどのように形成するかについても分析を行っています。これらの研究は、市場の非効率性を理解し、より効果的な投資戦略を立てる上で重要な示唆を提供しています。
シラーは単に市場の問題点を指摘するだけでなく、より良い金融システムの構築に向けた提案も積極的に行っています。彼は金融イノベーションが社会的目的に貢献すべきだと主張し、「Finance and the Good Society」(2012年)などの著書でその考えを展開しています。
具体的な金融イノベーションとして、シラーはマクロマーケットLLCという投資運用会社を共同創設し、新しい金融商品の開発に取り組んできました。例えば、住宅価格の変動リスクをヘッジするための不動産デリバティブや、インフレリスクに対応するための金融商品などを提案しています。
2013年の論文「Reflections on Finance and the Good Society」では、金融が社会的目的に貢献する可能性について論じ、金融業界の社会的責任の重要性を強調しています。また、2011年の論文「Economists as Worldly Philosophers」では、経済学者が単なる技術的専門家ではなく、社会的・倫理的問題にも取り組む「世俗的哲学者」としての役割を果たすべきだと主張しています。
このような社会的視点は、シラーの研究を単なる学術的貢献を超えた、実践的で倫理的な次元に高めています。
シラーは現在も活発に研究活動を続けており、最新の市場動向に対する分析や予測を発表しています。特に近年は、デジタル技術の発展やコロナ禍が市場に与える影響について研究を進めています。
2020年以降、シラーはコロナ危機下での資産価格の動向について分析し、パンデミックが投資家心理に与える影響や、在宅勤務の普及が不動産市場に及ぼす長期的影響などについて考察しています。
また、ナラティブ経済学(物語経済学)という新しいアプローチも提唱しており、経済現象を理解する上で「物語」や「語り」が果たす役割に注目しています。2019年の著書「Narrative Economics: How Stories Go Viral and Drive Major Economic Events」では、経済的な物語がどのように広がり、市場に影響を与えるかを分析しています。
さらに、仮想通貨やブロックチェーン技術についても研究を行っており、これらの新しい金融技術が従来の金融システムにどのような変革をもたらすかについても考察しています。
シラーの最新の研究は、現代の投資家や政策立案者に対して、複雑化する市場を理解し、将来の危機を予測するための貴重な視点を提供しています。彼の分析は、単なる価格変動の予測を超えて、市場の背後にある社会的・心理的要因を理解することの重要性を強調しています。
日本証券経済研究所による「ロバート・シラー教授のノーベル経済学賞受賞について」の詳細解説
シラーの研究は、金融経済学と行動経済学の融合という点で革新的でした。彼は伝統的な経済学の枠組みに心理学や社会学の知見を取り入れることで、より現実に即した市場分析を可能にしました。特に、投資家の非合理的行動や社会的影響が市場に与える影響を実証的に示した点は、経済学の新しい地平を切り開くものでした。
また、シラーの研究の特徴として、理論と実践のバランスが挙げられます。彼は高度な理論的分析を行いながらも、常に現実の市場問題に目を向け、実用的な解決策を提案してきました。ケース・シラー住宅価格指数の開発や、リスクヘッジのための新しい金融商品の提案など、彼の研究は実際の市場で活用されています。
さらに、シラーは経済学の社会的責任についても強く意識しており、金融システムが単に利益を追求するだけでなく、社会全体の福祉に貢献すべきだという考えを一貫して主張しています。この視点は、2008年の金融危機以降、特に重要性を増しています。
シラーの研究は、投資家や政策立案者だけでなく、一般の人々にとっても重要な示唆を提供しています。市場の非合理性や投資家心理の影響を理解することで、より賢明な投資判断や政策決定が可能になるからです。
今後も、シラーの研究は金融市場の理解と予測において中心的な役割を果たし続けるでしょう。特に、デジタル技術の発展やグローバル化が進む中で、市場の複雑性はさらに増しており、シラーのような多角的な視点からの分析がますます重要になっています。
イェール大学のロバート・シラー教授の公式ページ(最新の研究情報や講義資料が掲載)
金融工学や行動経済学に関心のある方々にとって、シラーの研究は豊かな洞察と実践的なツールを提供してくれます。彼の著書や論文を通じて、市場の動きをより深く理解し、より賢明な投資判断を行うための知識を得ることができるでしょう。