
ハリー・マックス・マーコウィッツ(Harry Max Markowitz、1927年8月24日~2023年6月22日)は、投資の世界に革命をもたらした経済学者です。日本では「ハリー・マーコビッツ」とも表記されることがあります。彼が1952年に発表した論文「ポートフォリオの選択(Portfolio Selection)」は、それまでの投資理論を根本から変える画期的なものでした。
マーコウィッツ以前の投資手法は、主にボトムアップ的なアプローチが主流でした。つまり、個別の証券を選び、それらを単に集めたものがポートフォリオとされていました。しかし、マーコウィッツは統計学を応用し、ポートフォリオ全体の視点から投資を考える新しい方法論を提示したのです。
彼の理論の核心は、「リスク分散によって投資効率を高められる」という点にあります。これは直感的には理解できることですが、マーコウィッツはこれを数学的に証明し、具体的な最適化手法を確立しました。この功績により、1990年には「資産運用の安全性を高めるための一般理論形成」でノーベル経済学賞を受賞しています。
ハリー・マーコウィッツは1927年、イリノイ州シカゴで生まれました。シカゴ大学で学び、1947年に学士号、1950年に修士号、そして1954年に博士号を取得しています。彼の学術的キャリアは、シカゴ大学に付属していたコウルズ委員会でのメンバーシップから始まりました。
1952年にはカリフォルニア州サンタモニカのシンクタンク、ランド研究所(RAND Corporation)に入所。ここで彼は後にノーベル経済学賞を共に受賞することになるウィリアム・F・シャープと出会います。その後、エール大学のコウルズ財団、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、IBMのT.J.ワトソン研究センターなど、様々な機関で研究活動を続けました。
晩年はカリフォルニア大学サンディエゴ校のRady School of Managementでadjunct professorとして教鞭を執りながら、自身の会社Harry Markowitz Co.でコンサルタント業務も行っていました。2023年6月22日、95歳でカリフォルニア州サンディエゴにて逝去しました。
マーコウィッツは単なる理論家ではなく、実践的な応用にも力を入れていました。例えば、SIMSCRIPT(シムスクリプト)と呼ばれるシミュレーション言語を開発し、経済分析プログラムの記述に活用していたことはあまり知られていない事実です。
マーコウィッツの現代ポートフォリオ理論(Modern Portfolio Theory)は、投資におけるリスクとリターンの関係を数学的に捉えた革新的な理論です。この理論の基本概念は以下のようにまとめられます。
マーコウィッツの理論では、投資対象のリターンは期待値として、リスクは分散(または標準偏差)として数値化されます。そして、複数の投資対象間の相関関係を考慮することで、最適なポートフォリオを構築する方法を提示しています。
この理論の画期的な点は、それまで個別に考えられていた投資判断を、ポートフォリオ全体の視点から最適化する方法を示したことです。これにより、投資家は感情や直感ではなく、数学的な根拠に基づいた投資判断が可能になりました。
マーコウィッツの理論を実際の投資に応用するには、以下のステップで最適なポートフォリオを構築します。
各投資対象について、過去のデータなどを基に期待リターン(平均収益率)とリスク(標準偏差)を算出します。例えば、株式Aの過去5年間の年間リターンが5%、10%、-3%、7%、8%だった場合、期待リターンは平均の5.4%、リスクは標準偏差の約4.9%となります。
各資産ペアの相関係数を計算します。相関係数は-1から+1の間の値をとり、+1に近いほど強い正の相関(一方が上がれば他方も上がる傾向)、-1に近いほど強い負の相関(一方が上がれば他方は下がる傾向)を示します。相関係数が0に近いほど、資産間の値動きに関連性がないことを意味します。
様々な資産配分比率でポートフォリオを構成し、そのリスクとリターンをプロットします。その中から、同じリスクレベルで最大のリターンを得られるポートフォリオ(または同じリターンで最小のリスクとなるポートフォリオ)を選び出し、それらを結んだ曲線が「効率的フロンティア」です。
効率的フロンティア上のポートフォリオから、投資家自身のリスク許容度に合ったものを選択します。リスク回避的な投資家は効率的フロンティアの左側(リスクが低い部分)、リスク選好的な投資家は右側(リターンが高い部分)を選ぶことになります。
実際の計算には、行列計算などの複雑な数学が必要になりますが、現在では多くの投資分析ソフトウェアやオンラインツールが利用可能です。また、ロボアドバイザーなどの自動投資サービスの多くも、このマーコウィッツの理論に基づいてポートフォリオを構築しています。
マーコウィッツの現代ポートフォリオ理論は、金融工学の基礎を築き、その後の様々な理論や実践に多大な影響を与えました。
マーコウィッツの弟子であるウィリアム・シャープは、この理論を発展させ、資本資産価格モデル(CAPM)を開発しました。CAPMは個別資産のリスクプレミアムを市場全体との関連で説明するモデルで、現在も資産評価の基本的なフレームワークとして広く使われています。シャープもこの功績により、マーコウィッツと共に1990年のノーベル経済学賞を受賞しています。
マーコウィッツの理論は、ファマ・フレンチの3ファクターモデルなど、より複雑なファクターモデルの開発にも影響を与えました。これらのモデルは、リターンを説明する要因をより詳細に分析し、投資戦略の精緻化に貢献しています。
オプション価格理論で知られるブラック・ショールズモデルなど、デリバティブ価格決定モデルの発展にも間接的に貢献しました。リスク管理の数学的アプローチという点で、マーコウィッツの理論と共通する基盤を持っています。
バリュー・アット・リスク(VaR)やテール・リスク分析など、現代のリスク管理手法の多くは、マーコウィッツが提唱したポートフォリオ理論のリスク概念を拡張したものです。
現在主流となっているETF(上場投資信託)やインデックス投資は、マーコウィッツの分散投資の考え方を実践したものと言えます。特に、全世界株式に分散投資するグローバルETFなどは、マーコウィッツの理論を最も純粋に実践した投資商品と言えるでしょう。
このように、マーコウィッツの理論は金融工学の発展に不可欠な基盤を提供し、現代の投資理論と実践の多くの側面に影響を与え続けています。
マーコウィッツの現代ポートフォリオ理論は革新的でしたが、完璧ではありません。実際の市場環境や投資家行動を考慮すると、いくつかの限界や批判点が存在します。
マーコウィッツの理論は、資産リターンが正規分布に従うという仮定に基づいています。しかし実際の市場では、極端な値(いわゆる「ファットテール」)が正規分布の予測よりも頻繁に発生します。2008年の金融危機のような極端な市場変動は、この理論の限界を露呈させました。
資産間の相関関係は時間とともに変化します。特に市場危機の際には、通常は相関の低い資産同士が突然強い相関を示すことがあります。つまり、分散投資の効果が最も必要とされる時に、その効果が弱まる可能性があるのです。
マーコウィッツのモデルは過去のデータに基づいて将来を予測しますが、「過去のパフォーマンスは将来の結果を保証するものではない」という金融の基本原則があります。過去と異なる市場環境では、モデルの予測精度が低下する可能性があります。
投資家は必ずしも合理的に行動するわけではありません。行動経済学の研究によれば、人間は損失を利益よりも強く感じる傾向(損失回避)や、短期的な結果に過度に反応する傾向(近視眼的損失回避)などがあります。これらの心理的バイアスは、マーコウィッツの理論が前提とする合理的投資家像と矛盾します。
理論上最適なポートフォリオでも、取引コスト、税金、流動性の制約などの実務的な問題により、実際に構築・維持するのが難しい場合があります。また、空売りや借入に制限がある場合、理論通りのポートフォリオを構築できないことがあります。
これらの限界を認識した上で、現代の投資理論では、条件付き値at リスク(CVaR)の活用や、ブラック・リッターマンモデルのような、マーコウィッツの理論を拡張・改良したアプローチが開発されています。また、ファクター投資やリスクパリティ戦略など、リスク管理に焦点を当てた新しい投資手法も登場しています。
マーコウィッツ自身も、晩年には自身の理論の限界を認識し、より実用的なアプローチの開発に取り組んでいました。彼の功績は、完璧な理論を作ったことではなく、投資の世界に科学的・数学的アプローチをもたらし、その後の発展の礎を築いたことにあると言えるでしょう。
実際、マーコウィッツがノーベル経済学賞を受賞した際、日本で講演中だったというエピソードは興味深いものです。受賞後のインタビューで「賞金は自らが体系化した理論で資産運用を実施したい」と語ったことからも、彼が自身の理論の実践的価値を信じていたことがうかがえます。