
マスターファイル作成義務は、平成28年度税制改正により移転価格文書化制度として再整備され、多国籍企業グループに対する重要な規制として位置づけられています。この制度は、OECD/G20のBEPS(税源浸食と利益移転)行動計画13の一環として導入されたもので、税務当局が重要な移転価格リスクを特定できるよう設計されています。
対象企業の具体的要件:
この基準は、国別報告書(CbCレポート)と同一の要件として設定されており、日本独自の基準となっています。注目すべきは、OECDガイドラインではマスターファイルについて金額基準や提出義務の詳細を各国の国内法に委ねているため、各国で異なる要件が設けられている点です。
国外においては、例えばインドネシアでは関連当事者間取引がある企業で前年度の年間売上が500億ルピア(約4億円)を超える場合、マスターファイルの作成義務が課されるなど、日本よりも低い基準が設定されています。このため、日本では対象外でも海外子会社において作成義務が生じるケースがあり、グローバル企業では各国の規制動向を把握することが重要です。
マスターファイルの提出期限は、最終親会社の会計年度終了の翌日から1年以内とされており、e-Tax(国税電子申告・納税システム)による電子提出が義務付けられています。この制度は平成28年4月1日以後に開始する最終親会社の会計年度から適用が開始されました。
提出手続きの特徴:
提出義務者は特定多国籍企業グループの構成会社等である内国法人ですが、実務上は効率性の観点から最終親会社が代表して作成・提出を行うのが一般的です。ただし、法人税法上は各構成会社が個別に提出義務を負っているため、親会社が提出していない場合は各社が対応する必要があります。
マスターファイルの内容は多岐にわたり、多国籍企業グループの構成会社の名称・住所・所有関係図、各構成会社の事業概況、グループ内の無形資産、金融活動、財務状況(連結財務諸表等)、税務当局との事前確認等の状況などが含まれます。これらの情報は、税務当局がハイレベルな移転価格リスクの評価やBEPSの有無を判断するために活用されます。
マスターファイル作成義務は、単なる書類提出要件にとどまらず、企業の移転価格戦略全体に重大な影響を与えています。特に、明確な移転価格ポリシーの整備と運用が先決条件となっており、企業はグローバルな移転価格戦略の見直しを迫られています。
企業実務への具体的影響:
マスターファイルに記載された移転価格ポリシーは、グループ各社のローカルファイル作成においても基準となるため、グループ全体での一貫性確保が重要です。この整合性が取れていない場合、税務当局による移転価格調査において問題視される可能性があります。
また、マスターファイルの記載内容は他の税制にも影響を与えます。例えば、子会社に事業実体がないことがマスターファイルから読み取れる場合、CFC税制の実体基準の観点から問題が生じる可能性があります。このため、企業はマスターファイル作成時に移転価格税制以外の税制への影響も十分に考慮する必要があります。
実務対応のポイントとして、システム導入、人員補強、ポリシー変更等が必要な場合は相当程度の期間を要するため、早急な取り組み開始が推奨されています。
マスターファイル作成義務を取り巻く環境は、国際的な税制調和の流れとともに継続的に変化しています。特に、デジタル経済の発展に伴う新たな移転価格リスクの出現や、各国の税制改正動向が企業に与える影響は増大しています。
最新の規制動向:
国別報告書と同様に、マスターファイルも情報交換を通じて外国税務当局に提供される可能性があります。このため、企業は日本国内の規制のみならず、海外展開先各国の規制動向も注視する必要があります。
中国などの一部の国では、日本で連結総収入金額1,000億円以上の基準を満たす企業に対して、「当然にマスターファイルを持っている」ものとして移転価格調査時に提出を要求するケースが報告されています。このような状況を踏まえ、企業は日本語版のみならず、展開先各国の言語による翻訳版の準備も検討する必要があります。
今後の対応戦略:
多くの企業がマスターファイル作成義務を単なるコンプライアンス要件として捉えがちですが、戦略的に活用することで企業価値向上に寄与する可能性があります。この独自視点での活用アプローチは、従来の規制対応を超えた価値創造の機会を提供します。
戦略的活用の具体例:
マスターファイルは「経済、法務、財務、税務の観点からハイレベルな概要を提供する資料」として位置づけられており、税務部門以外の経営陣や事業部門にとっても有用な情報源となります。特に、グループ全体での納税額の把握やバリューチェーンの可視化により、経営戦略の策定や事業ポートフォリオの見直しに活用できます。
提出義務のない企業であっても、マスターファイル相当の資料を作成することで、移転価格リスクの管理や税務調査への備えとして活用できます。また、将来的な事業拡大により提出義務対象となった際のスムーズな対応も可能になります。
さらに、マスターファイルの作成プロセスを通じて、グループ内の情報共有体制や意思決定プロセスの改善効果も期待できます。各構成会社の機能・リスク分析を深化させることで、より効率的なグループ運営の実現が可能となり、結果として企業価値の向上につながります。
このような戦略的活用により、マスターファイル作成義務は単なるコスト要因から競争優位の源泉へと転換することができ、規制対応を超えた価値創造のツールとして機能します。